ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その076

ロシアの歴史 タイトルロシア

第十章 ア・エヌ・クロパトキン将軍

第五段 アバザのクロパトキン評

ミハイル・スコベレフ on wiki pedia
アレクサンドル・アバザー  on wiki pedia

ウイッテ伯はかなり前からクロパトキン将軍の悪評を知っていたのかもしれません。

ウイッテ伯とクロパトキン将軍の馴れ初め

クロパトキンの話をするたびにウイッテ伯がいつも想い出すのは、ア・ア・アバザが彼の性格を批評した言葉である。


或る時、ウイッテ伯はアバサを訪れて彼の書斎に入ろうとしました。
すると、若いクロパトキン将軍が室から出て来るのに出逢いました。
その当時クロパトキンは、まだ本当に若い将軍でした。
「ゲオルギー」と「スタニスラウ」の三等勲章しかぶら下げていませんでした。
彼は後カスピスカヤ州長官に任命され、出発前に別れの為、諸方の高官連の家を廻りながらアバザの所へも来たのでした。
扉の所で、バッタリとウイッテ伯に出逢ったクロパトキンは言いました。
「おお、セルゲイ・ウイッテ!許してくれ給え。
実は君の所へ行きたかったのだが、何しろ忙しくて行かれなかったのだ。
北部アジアへ赴任命令を受けると至急出発しろというわけでね。
しかし四・五週間して帰って来ることになっているから、その時は君の所へ一番さきにお伺いするよ。」
クロパトキンは一体に接吻するのが好きでした。
彼はそこでウイッテ伯を抱擁し、接吻してから立ち去った。
そこでウイッテ伯がアバザの書斎に入ると彼はウイッテ伯い問いました。
「君は大変クロパトキンと懇意らしいね。非常に親密に話し合っているようだが…。」
彼は、廊下の鏡の反対側に坐っていて、ウイッテ伯たちの立ち話を聞きながら、その光景を眺めていたのでした。


「えっ」とウイッテ伯は言って、言葉を次いだのでした。
「クロパトキンは参謀本部のアジア課長といったような役目をしていましたし、私は鉄道管理局長でしたから良く仕事の事で彼と逢ったのです。
それに、絶えず色々な戦略的鉄道広張問題やら、動員計画の事やらを持ち出してきたものですから度々彼と逢う機会が有りました。」
ウイッテ伯は初めてクロパトキンと逢った時代の話をアバザにしました。
近東戦争が始まった時、ウイッテ伯は軍の後方にあるオデッサ鉄道の長官をしていました。
ウイッテ伯は軍隊輸送の事で、自分の小さな勤務車に乗ってキエフに行ったことが有りました。
キエフでウイッテ伯はスコベレフ大佐に逢いました。(彼は後年露土戦争で勇名を馳せ国民渇仰の的となった人物ですが、当時はまだ大佐でした)
スコベレフの父と非常に親しかったペテルブルグのウイッテ伯の叔父の所で逢った事があるので、ウイッテ伯は少しばかり知っていました。
スコベレフはウイッテ伯に言いました。
「君の車室に僕を乗せて行ってくれませんか?」
「どうぞ、乗って行って下さい。」ウイッテ伯は答えました。
「実は僕一人じゃないんだ。僕の参謀のクロパトキン大尉も一所なんだが…。」
「どうぞ。しかし三人は寝られませんよ。」
「いや、僕等は寝なくともいい。ただ座れさえすれば結構だ。」
ウイッテ伯はスコベレフ及びクロパトキンと三人で、一つの車室に乗ることになりました。
ウイッテ伯はこの旅行中に、スコベレフが一面クロパトキンを愛していると共に、他方からは軽蔑した感情を持っているのを見ました。


以上の話をした後でウイッテ伯はアバザに言いました。
「こうして僕達は初めて知己になり今の関係を結んでいます。」
クロパトキンがスコベレフ支隊の参謀長であったことは世間周知のことでありました。
スコベレフは後にで非常な英名を轟かせ、ゲオルギー最高勲章を授与された筈でした。
クロパトキンもその際にゲオルギー勲章を貰ったのでした。
ウイッテ伯はスコベレフから直接にクロパトキンの批評を聴いていませんでしたが、彼の妹のベロゼルスカヤ太公妃の話によると、彼女の兄のスコベレフは非常にクロパトキンを愛していた。
しかし何時の次の様に言っていたそうでありました。
「クロパトキンは良い実行者であり非常に勇敢な士官であるが戦時の軍隊指揮者としては不適任である。
彼は命令を遂行する事は出来るが統帥の才能が無い。
この点で軍人としての資質を欠いている。
彼は死を恐れないという点ではなかなか果敢であるが、自ら責任を負うて物ごとを決するというこのになると甚だ臆病である。」


話は後に戻るのですが、ウイッテ伯がクロパトキンと知己になった経緯を物語った時、アバザは非常に興味深い事をウイッテ伯に話しました。
しかもそれは如何にアバザが卓越した観察眼を持っていたかを物語るものでありました。
もし我々が大昔に住んでいたとしたら、この話は一種の予言となり、アバザは預言者と言われたかもしれません。彼の話は、次のような会話で結末を告げました。


「ねえ君!君はまだ若いし、僕はもう老人だ。で、僕の事について、君は「そうでない」僕は「そうだ」という事になるかもしれないが、それはどうでもいいとして、クロパトキンは確かに智慧のある将軍であり、勇敢な将軍であろう。
それで自分の経歴を作り上げている。また陸軍大臣にもなる事だろう…。」
ここで彼は一寸言葉をとぎらせた後「そうだ、陸軍大臣にもなるだろう。いや、大臣よりももっともっと偉くなるかも知れない。だが、その終わりはどうなると思うね?」
「それは判りません。」ウイッテ伯は言いました。
「結局はみんなが彼について幻滅を感じる時が来るのだ。それはなぜか、君に判るかね?」
「いいえ、判りません。」ウイッテ伯は答えます。
「それはこういうわけだ。彼は智慧も有り勇敢な将軍だ。
しかし彼の精神はまるで司令部附きの副官だ…。」


事実、クロパトキンの終わりはこの言葉通りになったのでした。

クロパトキン将軍は、自分を有能な人物に見せかけることが結構上手だったのだと思います。
ですが、深く付き合うと評判ほどではないことがばれてしまうのでしょう。
軍の司令官候補であるであろう時期に上司であるスコベレフにクロパトキンは将軍には向かないと評価されていました。
ですがスコベレフに附いてプレヴィナ包囲戦でブルガリアをオスマントルコから解放したり、ギョクデペの戦いでトルメキスタンの領地を広げたりしたため、中央の評判は上がって行ったのでしょう。
スコベレフは、1882年に亡くなります。そしてクロパトキンはその後釜に入り込んだのだと思います。


ミハイル・スコベレフは勇猛な軍人として名を覇していました。
白いいで立ちで、白い馬にまたがり、自分を目立つようにして相手を威嚇するような戦いを好む軍人であったようです。
クロパトキンの前評判もこれにかぶっているように思います。


日露戦争時、クロパトキン将軍が日本軍を北方におびき寄せて、日本軍の兵站が伸びきった所で反撃する計画を立てていた。
ロシアは伝統的に相手をおびき寄せる戦法を使う。
ナポレオンとの祖国戦争や、ドイツとの大祖国戦争もそうだった。と説明しているサイトとか見たことが有ります。
個人的にはクロパトキン将軍は、猪突猛進の武人で、戦略などとは程遠く、敵をおびき寄せて兵站が尽きるのを見越す、このような作戦を立てていたとは思いません。
それに、自国防衛の戦いと、領地保守の戦いではまるで違うでしょう。
広げてた領地を放棄しながらの撤退戦は戦っている兵隊の精神的負担が大きすぎてとても反撃できるものではないと思います。
祖国戦争の様にここを落とされたらもうすべてが失われてしまう、排水の陣の様な結果には、絶対にならないと思います。


アバザはウイッテ伯の大先輩にあたる、アレクサンドル・アゲーエヴィチ・アバザーという人だと思います。
先々代の皇帝、アレクサンドル二世帝時代に大蔵大臣を勤めていました。
ウイッテ伯はこういう人とも付き合いがあったのですね。
アバザはロシア帝国内では、重鎮と言われる人だったのかもしれません。
なので、クロパトキン将軍もアバザのもとに挨拶に来ていたのでしょう。
ウイッテ伯も同様にアバザが重鎮だから付き合っていたのでしょうか。
ひょっとしたらこれらの先人などと付き合いながら政治について勉強していたのかもしれません。

参考

アレクセイ・クロパトキン”.wiki pedia.(参照2023-06-28)
奉天会戦”.wiki pedia.(参照2023-06-028)
アレクサンドル・アバザー”.wiki pedia.(参照2023-06-28)
ミハイル・スコベレフ”.wiki pedia.(参照2023-06-28)
ギョクデペの戦い”.wiki pedia.(参照2023-06-28)
ロシア史上最高の名将は誰か:古代~20世紀から10人を選りすぐった”.RUSSIA BEYOND.(参照2023-06-28)

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