ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その075

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第十章 ア・エヌ・クロパトキン将軍

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左側の上下にあるのがクロパトキン将軍が身に着けていたのと同じゲオルギー勲章です。特別に武勲をたてた軍人に送られました。真ん中のはウラジミール勲章、右側のがエカテリーナ勲章です。

第四段 皇帝クロパトキンに幻滅す

皇帝から一目置かれていたクロパトキン将軍が日露戦争が深刻化するにつれて、だんだんと疎ましく扱われてしまったようです。

クロパトキン、平時の英雄か

クロパトキン将軍は、始めのうちは皇帝の寵臣でもあったし、また皇后からも愛されていました。
しかしそれは余り永くは続かなかったのでした。

もっと本質的に言うならば、この様な事が永く続くはずがないのでした。
何故ならば、クロパトキンの交際社会でのやり口や話しぶりは、副官と言った程度の物だったからでありました。
若い皇后から特別の寵愛を受けえなかったのは当然な事でありました。


クロパトキンは、家庭において教養と知識とを与えられない、1860年~70年代の参謀将校という型の人物でありました。
彼の外国語は余り光彩を放ったものではありませんでしたが、読み書きには不自由していませんでした。
彼の風貌は短躯壮快でありました。
この壮快味は、士官候補生の時代はゲオルギー勲章のリボン、それから軍服のボタン穴を飾る将校用ゲオルギー勲章、更に進んでは頸飾ゲオルギー勲章という順序に、白髪頭にゲオルギー勲章はたいして調和はたいして調和の良いものでもないが、彼の出世欲を鞭韃した物と見えました。


ゲオルギー勲章と言えば、1860~1870年代の勲章は、なかなか価値が有ったものでしたが、最近では著しくこの名誉の相場が下落してきていました。
それは、日露戦争の始めに勇名を走らせた海軍大将アレクセエフの例を見てもわかる者でした。
彼は今だかつて銃砲の音を聞いた事の無い軍人でした。
彼の名を戦争に結び付けて考えるなら、日露戦争の始まりに大きな過失を犯した張本人の一人にすぎないのでした。
ところが彼がクロパトキンと交代して奉天から召喚されると、彼方からも此方からも慰撫されて、とうとう頸飾ゲオルギー勲章を貰ったのでありました。


だが、このゲオルギー勲章の相場の下落についてクロパトキンにも責任があると言わねばならないのでした。
彼はこの勲章によって自己の経歴を誇っていたにも拘らず、だんだん栄達して上級になるとしっかり思慮分別を失ってしまいました。
そして、やたらに皇帝に申請しては、舞踏会の胸飾りにする花束でもあるかのようにこれを濫発したのでした。


清国人と満州を見物に行った、あの光輝ある北京遠征の際(実際は、密かに満州占領に関する陰謀を胸に描いたクロパトキンがこれをきっかけに清国をプラハの様にしようとして遂に日露戦争の序曲を書き御したのでありました)にも、何の理由もないのにやたらと勲章を申請しました。
また自分がクロパトキンが筆と舌と外交手腕とで自分の経歴に実質以上の虹彩を添えたことは事実でありました。


自分は皇帝自身に選ばれた少壮の陸軍大臣でありました。陛下の寵愛にもなれました。
軍事的に優越なロシア帝国で最も努力ある人物にもなれました。
彼はこんな風にうぬぼれれていました。


彼は、陛下の特別の思し召しで上奏報告の後にいつも午餐に招かれていました。
古い先帝時代の大臣達は殆ど招待を受けていませんでした。受けてもごく稀な事でした。
彼と外務大臣ムラビヨフ伯は、絶えずこの午餐に招待を受けえいました。
ムラビヨフ伯は、ふざけた低級な洒落が得意で皇后陛下のお気に召したのでした。
彼はただ皇帝の思し召しで招かれていたのでした。
しかしこういう招待を受けるには皇帝一人の寵ばかりでは足りない、少なくとも皇后の好意を必要とする。
クロパトキンはすぐにこの要領を飲み込んだのでした。


1898年の夏、ウイッテ伯はエラギン島にある夏の宮殿の一部に済んでいました。
クロパトキンはカメンスイ島にある宮内省所属の建物に住んでいました。
ある夕暮れの事でした。
ウイッテ伯はクロパトキンがこの前日陛下に上奏した緊急問題について相談するため彼のもとを訪れました。
ウイッテ伯は仕事についてクロパトキンに説明したあとで、すぐ帰ろうとしました。
すると彼はウイッテ伯を引き留め始めました。ウイッテ伯は彼に言いました。
「君の仕事の邪魔をするのは止そう。
君は上奏報告をするのだろう。まあしっかり報告の準備をし給え。」
クロパトキンはウイッテ伯に言いました。
「いや、仕事のことなら心配いらない。別に報告の時もあるから。
それよりも君、僕は今トゥルゲネフの小説を読んでいるのだ。
上奏報告の後でいつも午餐に招かれるのでね、実はロシアの女性のタイプをだんだんと皇后陛下に御紹介しようと思って…」


その翌年の春を陛下はヨット生活に過ごされました。
或る日クロパトキンは上奏報告を終えての帰り途に、ウイッテ伯の別荘へ立ち寄りました。
色々と話しをしているうちに、彼はウイッテ伯に言いました。
「実は今日、僕は非常に陛下を喜ばしてしまった。
と言うと僕が上奏報告をする時天気がうっとうしいので陛下は非常に気難しい顔をしておられた。
陛下は窓際で報告を聞いていたのだが、僕がふと窓外を見ると、バルコニーに皇后が立っておられたのさ。
大変美しく着飾っててね。そこで僕は陛下太陽が出ました」と声をあげた。
陛下は、「なに、何処に太陽が…君は何を言っているのだ」というから、僕は「陛下後ろをご覧ください」と言ったのさ。
陛下が振り返るとバルコニーに立っていた美しい皇后を見つけたというわけだ。
すると陛下は微笑を洩らされて、すっかり壮快そうになられたよ。」

始めの内は皇帝からも皇后からも信頼されていたクロパトキン将軍もだんだん陛下達からの信頼が無くなっていったそうです。
それは、宮廷社交界での振舞いだったそうです。
副官程度の口ぶりとは何なのでしょうか。
名には小さい出来事をさも大げさに表現したり、自分の手柄話しが多かったと言う事かもしれません。


クロパトキン将軍は見た目は短躯壮快、たぶん、小柄ではあったが気力に満ちた感じがする風貌だったようです。
クロパトキン将軍は若いと聞から軍人として武勲を立てていたようです。
士官候補生の時代にはゲオルギー勲章を受けてっていました。
将校に昇進してからも、授与され、それ以外でも受けています。生涯通して3回ゲオルギー勲章を受けると言う事は大したことだったと私は思うのですがどうなのでしょうか。
ウイッテ伯は軍人のクロパトキン将軍が宮廷内で殆ど太鼓持ちの様な軽口をたたいているのが気に入らなかったのだと思います。口を開けば勲章の催促、出来の悪いおべんちゃら、到底軍人の様には見えなかったのでしょう。
クロパトキン将軍は悪い人物を見本にしてしまったように思えます。
将軍の軽口はムラビヨフ伯の影響ではないでしょうか。

聖ゲオルギー勲章は、ロシア帝国の最高の軍事勲章だった。エカテリーナ2世(1729~1796年)によって1769年に設けられ、個人が戦場であげた武勲を顕彰することのみを目的としていた。この勲章は規定によると、「単に義務を果たしたにとどまらず…抜群の勇気ある行動を示した者に授与される。この勲章は常に佩用すべきである」
 聖ゲオルギー勲章は、4つの等級に分かれ、勲一等が最高位。記章は、十字架、星、リボンで構成されている。十字は、白いエナメルを塗った「クロスパティー」(十字の紋章のうち、アームの幅が真ん中は細く、末広がりになるもの)であり、中央のメダリオンには聖ゲオルギーが描かれている。星は四角で銀色。「SG」の文字が中央にあり、黒いエナメルの帯で囲まれ、そこに勲章のモットー「奉仕と勇気のために」が刻まれている。
 リボンはオレンジ色で、3本の黒いストライプがあり、ロシアの「軍事的栄光の色」である火と火薬を象徴している。1845年以来、授与された者はすべて、世襲貴族となる権利を与えられた。

ロシア帝国の勲章TOP 5”.RUSSIA BEYOND.(参照2023-06-26)
参考資料

ステパン・マカロフ”.wiki pedia.(参照2023-06-26)
エヴゲーニイ・アレクセーエフ”.wiki pedia.(参照2023-06-26)
エヴゲエニイ・イワノヴィチ・アレクセエフ提督”セルゲイ・チェルニャフスキー.東京大学史料編纂所研究紀要 第26号 2016年3月.(参照2023-06-26)

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