第九章 遼東半島占領事件
第十六段 朝鮮問題で日本に譲歩
遼東半島占領は日本とイギリスからかなり攻撃されたようです。
今まで持っていたであろう利権を放棄するようになりました。
ロシアの朝鮮半島の利権
我々はニコライ二世陛下が即位の当時に日本と締結した協約によって、朝鮮で優越的な勢力をしめていました。
ロシアは朝鮮に軍事顧問を持っていました。
可成りの駐屯軍隊も持っていました。
最も意義のあったのは、朝鮮の財政を一手に掌握していた事であります。
ウイッテ伯はこの日本との協約に基づいて、朝鮮王府の財政顧問を任命していました。
この顧問は実質において朝鮮大蔵大臣の仕事をしていました。
この顧問はかつてウイッテ伯のもとに収税局長をしていたアレクセエフでした。
当時アレクセエフは、財政問題につては朝鮮王国で完全な勢力を持っていました。
その結果、ムラビヨフ伯は日本との衝突を恐れ、日本の要求によって、朝鮮から軍事顧問と駐屯軍を引き上げさせました。
そのために朝鮮王の顧問アレクセエフも朝鮮を去らなめればならなくなりました。
かくて朝鮮における軍事的勢力や経済的勢力は、ロシア代表の手から日本代表の手に移されることになってしまいました。
1898年4月13日に日本と締結した協約は、日本を安心させる手段に他ならないものでした。
我々はこの協約にとって、朝鮮を日本の実際勢力の下に提供してしまったのでした。
ところが日本はこの協約を当座の手段と解釈しました。
もし我々がこの協約を正直に守り、ただ紙の上ばかりでなく、この協約の精神にもっと忠実であったなら、言い換えれば、朝鮮を完全に日本の勢力下に渡してやったなら、恐らくロシアと日本との平和関係はいつまでも続いていたでしょう。
一応確認として
1897年10月 6日;ロシア公使朝鮮王に度支顧問にアレクセエフに要求
1897年10月26日;度支顧問ブラウン解任
1897年11月 1日;膠州湾にてドイツ人宣教師殺害
1897年11月 5日;アレクセエフ度支顧問に就任
1897年11月14日;ドイツ海軍青島上陸占領
1897年11月20日;ドイツ・清国和平交渉開始
1897年12月ごろ ;ロシア艦隊遼東半島沖集結
1897年12月21日;イギリス艦隊仁川沖に集結、ブラウン留任
1898年 1月21日;絶影島でロシア軍貯炭庫問題
1898年 2月ごろ ;露韓銀行設立
1898年 3月 3日;独清条約締結
1898年 3月23日;朝鮮国にてロシア軍事顧問撤退
1898年 3月27日;旅順・大連借款条約締結
1898年 4月25日;西・ローゼン協定締結
1898年 4月ごろ ;露韓銀行閉鎖
「ニコライ二世陛下が即位の当時に日本と締結した協約」とは、いわゆる山縣・ロバノフ議定書の事でしょう。
ウイッテ伯はこの協約によって、ロシアは優越的立場になったと言っていますが、ウイッテ伯は中身を読み込んでいないように感じます。
ロシアによる軍事顧問を置くことも、度支顧問を置くことも協定内には日本側が容認するようなことは書かれていません。
当時、朝鮮では露館播遷状態でロシア公使が朝鮮王を公使館に囲っている状態で朝鮮内政をやりたい放題だったものです。
朝鮮王をロシア大使館に連れ込むのも殆ど人さらい状態でした。
ロシア大使ウエーバーも事実を本国には伝えられなかったと思います。
結果だけ度支部を占有できたとか朝鮮王は友好的だとかそのような報告だけだったのだと思います。
それ故にウイッテ伯も勘違いしたのだと思います。
度支顧問にアレクセエフを送り込んだのは、たぶんウイッテ伯で正しいでしょう。
ここでは書かれていませんが、ロシアは朝鮮に露韓銀行を設置しました。これを提言したのはウイッテ伯ではないと思います。ウイッテ伯が銀行を用意するのならば2か月で撤退などの結果にはならないと思います。
軍事顧問の撤退の件は日本から突っ込みを入れられたからだと思います。日本本土安全上、朝鮮半島にロシア軍を置いておきたくないからです。
山縣・ロバノフ議定書にも書かれていない事だから当然の様に日本から指摘を受けたのだと思います。度支顧問はイギリスから指摘を受けたためでしょう。
日本ではないと思います。ですが、西・ローゼン協定では両方とも勝手にロシアが出来ない様になっています。
「ところが日本はこの協約を当座の手段と解釈しました。」
これは日本が当座の手段と解釈していなかったのではなく、ロシアが解釈しないで後々覆そうとしていたと言う事だと思います。翻訳者の勘違いだと思います。
第十七段 極東艦隊建設問題
ロシア太平洋艦隊用の軍港か
関東州の占領後、我々は海軍力の拡張という緊急問題に直面しなければならなくなりました。
そのため1898年の初めに、海軍大将アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公とウイッテ伯はこの問題について協議する事になりました。
それは陛下が裁可した軍艦建造計画書の為予算外支出として、9千萬留を支出し、海軍拡張費に充当する事になったのでした。
この決定は陛下を事情に喜ばせました。
ウイッテ伯に対する陛下の親切な態度はまた元の様になりました。
1898年の初めに緊急に海軍拡張の為の予算が承認されたようです。
朝鮮半島の絶影島で発生したロシア軍による貯炭庫問題はその海軍拡張の一環だと思います。
ウラジオストク~絶影島~大連を海運で結ぶつもりだったのだと思います。
というよりも海軍は絶影島に太平洋方面用の軍港を作るつもりだったのかもしれません。
これが完成していたら日本は、日露戦争も可成り危なかったように思います。
”西・ローゼン協定”.Wikisource.(参照2023-05-22)
”山県・ロバノフ議定書”.Wikisource.(参照2023-05-22)
”小村・ウェーバー覚書”.Wikisource.(参照2023-05-22)
”山縣・ロバノフ協定”Wikipedia.(参照2023-05-22)
”小村・ウェーバー協定”Wikipedia.(参照2023-05-22)
”西・ローゼン協定”Wikipedia.(参照2023-05-22)
”度支顧問事件”Wikipedia.(参照2023-05-22)
”露清密約”Wikipedia.(参照2023-05-22)
”旅順・大連租借に関する露清条約”Wikipedia.(参照2023-05-22)
”膠州湾租借地”Wikipedia.(参照2023-05-22)