第九章 遼東半島占領事件
第十二段 李鴻章に五十万留賄賂
ウイッテ伯は、ロシア帝国の遼東半島侵略による清国側の反発を治める為にある方策を取りました。
遼東半島の値段は75万ルーブル
ウイッテ伯は北京駐在財務官ポコチロフ(彼はその後北京公使となりました)に電報を打って、李鴻章と張陰桓に会見する事を命じました。
彼等の力でロシアの提示した条件に同意を与えるよう尽力する事を懇願させました。
この際ウイッテ伯はこの二人に、李には50万留、張には25万留という莫大の贈り物を約束しました。
これ等の大官たちは陸兵を満載したロシア艦隊が完全な戦闘準備を整えている事を知っていました。
関東州の割譲は結局避けがたい事であると考えました。
そこでロシアの提議に著名する様に西太后に説きに行く事を引き受けたのでした。
ウイッテ伯の遼東半島占領問題の解決策は、清国側の問題解決担当者の李鴻章・張陰桓に賄賂を渡してロシア側の利益を受け入れさせる事でした。
李鴻章も遼東半島のすぐそばでロシアの艦隊がうろつき、その状態でごね続けるのかきつい判断だったと思います。
しかし、外交上交渉でロシアの言い分を聴き入れてしまう事があっても仕方がないと思いますが、賄賂は受け取らないでおいて欲しかったです。
第十三段 清国遂に譲歩する
遼東半島の日本の占有はだめだが、ロシアならかまわない?
永い間協議を重ねたのち、西太后はとうとう譲歩しました。
ウイッテ伯は、これに関する電報をポコチロフから受け取りました。
その電文には「協約は必ず著名されるであろう。」と書かれていました。
陛下はウイッテ伯のこの策動については何も知りませんでした。
ウイッテ伯はこの事をすぐに陛下に報告しました。
陛下はウイッテ伯の報告文に「何のことか了解に来るしむ。」と書き添えてえ返してきました。
が、ウイッテ伯にこの経緯を説明した時、陛下は更に電文の上へ「これは非常に良かった。信じ難いほど素敵だった。」と書いてありました。
協約は1898年3月15日、我が全権と李鴻章及び張陰桓との間に調印されました。
この際もし清国政府が譲歩せず、これを拒絶した場合には、総指揮官たるドゥバノフ提督は数日を出ないで関東州占領の命令を下したでしょう。
そしてその実行は極めて、容易な事であったでしょう。
なぜならば旅順要塞はまるで玩具の様なものであったし、関東州には清国の軍隊らしいものが無かったからであります。
こうして危険な我々の第一歩は終わったのでした。
そしてこの第一歩は、遂に日露戦争という不幸な結果に我々を導いたのでした。
またこの占領は清国と我々との伝統的親善関係を破壊し永久に取り返しの付かないものにして終わったのでした。
この関東州占領の数年前に我々はそこから日本人を撤去させていました。
清国の領土保全を破壊する事を許さないという標語をあげていました。
我々はこの標語によって極東で実質的利益を獲得した所の日本に対抗して、清国と秘密防御同盟を結んでいました。
しかも幾何も経たない内に、戦勝国たる日本を撤退させたその土地を、自ら占領したのでした。
侵略戦争をしなくても遼東半島を入手できた事をニコライ二世帝は、経緯をウイッテ伯から知らされて喜んでいます。ですがウイッテ伯がその策略を行っていた事を知りませんでした。
ニコライ二世帝は外交政策に対してはあまり深く考えない人であったように思えます。
ウイッテ伯も気が付いていた様です。
日本に対して、他国の領土保全の為に遼東半島を占有していけないと言って放棄させておきながら、ロシアが戦争の勝利権利でもないのに遼東半島を占領してしている事の矛盾を。
ですが、ニコライ二世帝はその矛盾が世論にどの様に見られるかが理解できないでいるようです。
当時の列強国の施政者は、個人的な利益、例えば名声などの為に平気で戦争を起こすのが普通だったようです。