ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その061

ロシアの歴史 タイトルロシア

第九章 遼東半島占領事件

第一段 ドイツの膠州湾占領

1897年11月ドイツ帝国は清国膠州湾を占領しました。

占領報告第一報

1897年。外務大臣が主催するペスト予防委員会が開かれている最中に、一通の至急電報が外務省に入りました。そしてこれを外務大臣ムラヴィヨフ伯の所へ持ってきました。
ムラヴィヨフ伯はこの電報を読み終わってしばらくためらっていましたが、それをウイッテ伯に渡しました。
それにはドイツ軍艦が青島へ入港したことが書かれてありました。
この電報についてウイッテ伯はムラヴィヨフ伯に言いました。
「これは多分一時的占領で、間もなく彼等は撤退するであろう。しかしながらもし彼等が撤退しない場合には、ロシアその他の各国は強制的に彼等を撤退させるのが至当である。」
ウイッテ伯の言葉に対して、ムラヴィヨフ伯は何とも答えませんでした。
少なくとも「否」とか「然り」とかいう事を好まなかったのは明らかでした。


ウイッテ伯とムラヴィヨフ伯はペスト委員会の席でドイツ軍艦が青島に入港したことを知ったのでありますが、この通知は、外務大臣が全然予期しない事でもないらしいのでした。
しかしウイッテ伯には全く意外の出来事でした。それから数日たつと、広報によってドイツ軍艦青島入港の事が明らかになったのでした。
そしてドイツ外務省は、ドイツ軍艦の青島入港は、先にドイツ宣教師が殺害された報復手段として清国を膺懲する為てあると説明していました。
しかし、ただそれだけの主意を貫徹するのに、ドイツがこんな大艦隊を入港させ、陸戦隊をあげて青島を占領しる必要があるだろうか、という問題については、多くの人々に頗る奇怪の念をいだかせたのでした。

ドイツによる膠州湾占領は、次のようなプロセスを取っている。


1897年11月1日、山東省巨野県(現菏沢市)でドイツ人宣教師二人が殺害される。
11月7日、上海にいるドイツ東洋艦隊司令官オットー・フォン・ディーデリヒスに膠州湾占領の命令を出す。
11月14日、ドイツ海兵隊は、長期航海途中の上陸及び訓練を口実に膠州湾に上陸。ほぼ戦闘なしで、清国警備兵を追い出し開放占拠。


ヴィルヘルム二世が訪露時にニコライ二世帝に膠州湾を占領したい旨を伝えてたのが8月、その3か月後の出来事です。
ヴィルヘルム二世はやはり、機会を狙っていたのでしょう。

参考

ミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフ”.wiki pedia.(参照2023-05-01)
膠州湾租借地”.wiki pedia.(参照2023-05-01)

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