第八章 各国元首の露帝訪問
第六段 キエフ総督辞任事件
1897年の暮れに文官のイグナチェフと武官のドラゴミロフが、キエフ総督の椅子を掛けて争いました。
キエフ総督権利争奪戦
1897年の末にロシアの政界では重大な変化が起きました。
それはキエフ総督イグナチェフ(駐土大使の兄弟)が職を退いた事でした。
彼は全く無能な人間で、かなり狡猾ではありますが本質は悪人というわけでもありませんでした。
彼は、ペテルブルグ官界との連絡とゴマすりとで立身した様な男で、すでにアレクサンドル三世帝の在位中キエフ総督に任命されていました。
しかし彼は文官総督であったので軍権を持っていませんでした。
キエフ軍管区司令官には、ドラゴミロフ将軍が任命されていました。
一つの軍管区内で文武の職権が一つでない場合、よく我がロシアにあった如く、イグナチェフとドラゴミロフの間は円滑には行きませんでした。
こういう事は立憲政治を行う事を常としている現在でもたびたびある事で、特にストルイピンの改革以来、文官の権力が法律の定めたところより著しく専横になって以来、その傾向が著しくなっていました。
この専横が住民の上に働きかける様になった時、住民はこれに対応する事が出来なくなるのでした。が、この権力が陸軍の利益に抵触すると忽ち軍隊司令官の反抗を招いて、結局どちらかの長官が身を退く様な結果になるのでした。キエフで起きたのが将にそれでした。
イグナチェフもドラゴミロフも各々ペテルブルグ官界に支持者を持っていました。
そして、結局ドラゴミロフが勝利したのでした。もっと正確に言えば、陸軍大臣ワンノフスキーが内務大臣ゴレムイキンに勝ったのでした。
その後イグナチェフは参議院議員に任命され、ドラゴミロフはキエフ総督兼軍管区司令官に任命されました。

ドラゴミロフは才能もあり独創的な人物で、軍事的知識はかなり持っていましたが、スヴォーロフの「弾丸より剣だ」という格言を守ってすべての戦術・戦略を勇敢と言う事に持ってこなければ承知の出来ない軍人の部類に属していました。
近代の戦争、特に日露戦争は、勇敢と言う事の他に技術が大きな力を持つと言う事を教え示していました。
ドラゴミロフは露土戦争の際、ドナウの途河戦で功名を立てて有名になった人物でありました。
彼はこの戦闘で負傷をしてしましました。そのために常に跛をひいていましたが、それがまた彼の自慢でもありました。
ドラゴミロフは事情に酒を好みました。
だから彼の部下にはこの弱点を寛大に見逃してくれる親友達が常に集まっていました。
ピョートル・ストルイピンは、1862年生まれなので、1897年では35歳です。
彼はまだ、内務省の役人という立場でした。
ウイッテ伯の言うストルイピンの改革とは、一般に反政府派の弾圧と農地解放であると思えるが、ここでは前者であろうと思います。文官でありながら、権力をふるったといる事です。
ゴレムイキンはストルイピンの前任者です。
ゼムストヴォつまり地方自治、国民選任の政治家の権限を確保しようとした政治家です。
アレクサンドル・スヴォーロフ伯は、ロシア帝国の陸軍軍人です。
18世紀最高の名将と言われています。スヴォーロフ伯の言葉は、「弾丸は嘘をつく。銃剣は正直だ」と言って当時の拳銃の精度が悪いかったので、確実に成果の出る銃剣の方が良いと言う事のようです。
ウイッテ伯が言っている様にスヴォーロフ伯の認識は100年前の認識は既に古いわけです。
キエフ総督事件は、1897年の出来事で有り、1905年の日露戦争より前の出来事です。
その時にウイッテ伯がスヴォーロフ伯の言葉が時代遅れであると認識で、ドラゴミロフを非難していたのならすごい事であるとおもいます。
”ピョートル・ストルイピン”.wiki pedia.(参照2023-04-30)
”農奴解放令”.wiki pedia.(参照2023-04-30)
”1861年 ロシアの農奴解放の実態:問題だらけでロシア革命の遠因に”.RUSSIA BEYOND.(参照2023-04-30)
”帝政最後の改革者ストルイピン生まれる”.RUSSIA BEYOND.(参照2023-04-30)
”イワン・ゴレムイキン”.wiki pedia.(参照2023-04-30)
”ゼムストヴォ”.wiki pedia.(参照2023-04-30)
”アレクサンドル・スヴォーロフ”.wiki pedia.(参照2023-04-30)
”ロシア史上最高の名将:生涯無敗の アレクサンドル・スヴォーロフ”.RUSSIA BEYOND.(参照2023-04-30)