第八章 各国元首の露帝訪問
第五段 フランス大統領の訪露
フランスのフォール大統領が、ロシアへ答礼訪問しました。ニコライ二世帝は、歓迎晩餐会の席上でフランスとは同盟関係にあると発言しました。
ロシア、フランスとの関係強化成る
8月11日。フランス大統領フェリックス・フォールが答礼訪問の為ペテルブルグへ到着しました。
その滞在中に特筆すべき事件が起きました。
この事件は、先帝アレクサンドル三世と現ニコライ二世帝陛下の性格をはっきりと描いていました。
アレクサンドル三世帝は、ロシアのあらゆる伝統を退けドイツとの伝統的同盟を破棄してフランスと協約を結びました。
皇帝は王位に在る間に正直にその協約を実行しました。
彼ほど自分の結んだ協約に忠実な人間はいないとまで言われていました。
公式の訪問や送迎の際、先帝浜津フランス国歌を吹奏させ、その次にロシア国歌を聴くようにしていました。フランス人はこれを見て非常に歓喜した物でした。
しかしアレクサンドル三世帝の協約はそれ以上には一歩も深入りしませんでした。
ニコライ二世陛下の治世となった現在、フランス大統領が答礼訪問の為ペテルブルグへ来たのでした。陛下は大統領に敬意を表す為で偉大な餐宴を張りました。
陛下は、大統領との乾杯の席上で、彼の父によって結ばれた協約を「同盟条約」として宣言しました。それ以来我々はフランスの同盟国となったのでありました。
ロシアは一層深く条約の上でフランスと提携が賓客において如何に大きいものであったかは、歴史が良くこれを物語っているのでした。
この同盟は、フォール大統領と共のペテルブルグに滞在していたフランスの外務大臣アノトが、かねて抱懐していた自分の政治目的を実現せしめた結果に他ならないのでした。
ウイッテ伯の見るところでは、大統領はブルジョア敵な女好きのする好男子に過ぎない様に見えました。
彼はこういう政治的な事はすべて外務大臣アノトの差し金で動いていたのでした。
アノトはその才能といい手腕といい、なかなかの遣り手でありました。
しかしウイッテ伯は彼の傲慢な態度をあまり好きではありませんでした。
フランス大統領がペテルブルグを去った後で、皇帝のポーランド巡遊が行われました。
ついでアビシニアの代表と称するレオンティエフがペテルブルグを訪れたましたが、別に特筆するような事もありませんでした。
ドイツとの伝統的同盟とは、独露再保証条約の事でしょう。
アレクサンドル三世がドイツとの伝統的同盟を破棄した、と書いていますが実際は、ドイツの宰相ビスマルクが辞職した後、1890年にドイツ側が条約の更新拒絶したそうです。
フランスとの協約は、1894年に結ばれた露仏同盟の事でしょう。
露仏同盟により、フランスの銀行などからの融資でロシアは経済やインフラはかなり進んだようです。
ニコライ二世がフランスの事を同盟国と言うぐらいロシアにとっては重要な国だったのかもしれません。
アビシニアとは、現在エチオピア連邦民主共和国と呼ばれている国の旧名だそうです。
欧州では、1940年代までアビシニアと呼ぶことが多かったようです。
アビシニアの代表と称するレオンティエフとは、ロシア人であるようです。
ニコライ・レオンチェフは、探検家であり、アフリカへ渡りました。
エチオピアで軍事顧問を引き受け、第一次イタリア・エチオピア戦争(1894年~1896年)に参加したと言われています。
その時、ロシアとの橋渡しをしており、ロシアはエチオピアに加担して兵器等提供し可能性があります。戦争は、エチオピアが勝利しています。
レオンティエフは、1897年の夏にエチオピアで伯爵の称号を得ています。
エチオピアの伯爵としてロシアに訪れたから、エチオピアの代表なのかもしれません。
これ等の訪問から想像して、レオンティエフ、フランス大統領、ドイツ皇帝、オーストリア皇帝の訪露は、1897年の出来事かもしれません。
”露仏同盟”.wiki pedia.(参照2023-04-29)
”独露再保障条約”.wiki pedia.(参照2023-04-29)
”エチオピアの歴史”.wiki pedia.(参照2023-04-29)
”ニコライ・レオンチェフ”英語版自動翻訳.wiki pedia.(参照2023-04-29)
”第一次エチオピア戦争”.wiki pedia.(参照2023-04-29)
”イタリアがエチオピアを征服した方法”.TOP WAR.(参照2023-04-29)
”エチオピアのロシア人:ロシア帝国のアフリカの叙事詩”.TOP WAR.(参照2023-04-29)