ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その053

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第七章 新外相ムラヴィヨフ伯

第一段 ムラヴィヨフとラムスドルフ

外務大臣シーシキンは5か月ほどの短期で大臣を辞任してしまいます。ムラヴィヨフ伯が外務大臣代行として就任し、1897年4月に外務大臣になりました。

外務大臣ミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフ
外務大臣ミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフ on wiki

ムラヴィヨフ伯の出世街道まっしぐら

ムラヴィヨフ伯が、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世のペテルブルグの訪問に先立って1897年1月1日に外務大臣心得になり、それはら、同年4月13日に外務大臣に任命されたことは天命でありました。
彼はロシアの歴史に転機を制したあの恐ろしい結果を将来し、ロシア史上に一大不幸をもたらした人物であります。


ムラヴィヨフ伯は、コペンハーゲン大使から栄転して外務大臣となった人でした。
彼が外務大臣の職に任命されることになったのは、彼がコペンハーゲンで大使の職に在ったからでした。
在コペンハーゲン大使は、自然に皇族と近づきになれるのでした。
というのはアレクサンドル三世時代や、更にさらにその後においても、ロシアの皇室はデンマークの皇室と昵近な婚戚関係を持っていたので、コペンハーゲンを訪れること屡々であったのでした。
皇族が在コペンハーゲンの大使と接触するのは必然でありました。
同地にあるロシア大使が外交的才能を発揮すべき活動舞台は極めて極限されたものでありましたが、その代わりに彼等は皇室関係のことでは遺憾なく自分の才能を発揮すべき活動舞台を持つことが出来るのでした。
新皇帝が、外交家中の誰をも知っていなかった為に、皇帝の人選がムラヴィヨフ伯に向けられたのは極めて自然でした。
皇帝はデンマークに滞在中彼と屡々逢ったことがある筈なのです。
最後に、ムラヴィヨフ伯は皇太后陛下、即ち皇帝の母君にはよく見知られていたのでした。
皇太后は、屡々デンマークに滞在していたのでした。
彼が外務大臣に任命されることになった理由は、それ等の事実によって説明されうるのです。


こうした任命が行われた当時、ウイッテ伯は、ムラヴィヨフ伯を全く知りませんでした。
が、且て一度前ベルリン駐在大使であったシュワロフ伯にムラヴィヨフ伯の人となりについて意見を聞いた事が有りました。
彼が大使であった当時、ムラヴィヨフ伯がその参事官であった事があるからでした。
シュワロフ伯はムラヴィヨフ伯の才能を非難して次の様に言うのでした。
「ムラヴィヨフ伯について貴下にお答え出来るすべてはは、ただ彼が道楽者であるという一言に尽きる!」
ムラヴィヨフ伯は、ロバノフ候と同じく、世故に慣れた諧謔家ではありましたが、そのタイプが後者とは全然別でありました。


ロバノフ候の物言いは一般的に優雅であり、文化的であり会社に対して興味を持っていました。
が、しかしムラヴィヨフ伯のは、平凡であり、気障な風があるのでした。
ロバノフ候は、学者的で文化的な人間でありました。
ムラヴィヨフ伯もよく似ていましたが、学問的には教養が乏しく、多くの物事に対して全く無知であり、全くお話にならないのでした。


このほかまたムラヴィヨフ伯は、十分な食事を執らず、食事時間には決まって酒を飲むのでした。
其の為に、食後には決まって執務がおろそかになり、一般的には、仕事ははかどる方ではありませんでした。
執務に際しても彼は非常に骨惜しみをし、彼の執務に費やす時間は極めて僅かでした。

ウラジーミル・ラムスドルフ on wiki


こうした性質を持っていたので、ムラヴィヨフ伯は、ウラジーミル・ニコラエヴィッチ・ラムスドルフ伯を次官に選任したのであります。
ラムスドルフ伯は外務省参事官であった事があり、極度の活動家でありました。
彼は終始ペテルブルグの外務省で働いていたという経歴を持っていました。
彼は知己に対して特に立派な心掛けを持ち、僅かな学歴を持っていたに拘わらず、教養が豊であり、人間としては極めて素朴でありました。
ラムスドルフ伯は終始働き続けていました。
その結果、彼は外務省に入るや否や常に大臣の最も近しい補佐役となっており、最初は秘書官に、次いで各省の局長に、最後には参事官として常に働き通しでした。


ラムスドルフ伯はゴンチャロフ侯爵の下で早くも今日の地位を作る素地を築いたのでした。
その後、ギルス外務大臣の下では、だし人に最も近しい人間となっていました。
更に彼はロバノフ・ロストフスキー候の大臣時代には、その参事官となり、侯爵の最も近しい補佐役となりました。


ラムスドルフ伯は外務省のあらゆる機密に属する機密に属する仕事の生き字引でありました。
しかし、外務次官としてのラムスドルフ伯は宝の持ち腐れでありました。
ムラヴィヨフ伯自身は一般外交上の事には全く理解が無く、その方面には疎かでありました。
更にその上執務を厭い、ラムスドルフ伯を次官にした後もムラヴィヨフ伯自身は、執務よりも遊びの方が寧ろ本業である有様でした。
それにもかかわらずムラヴィヨフ伯はどういうものか、皇帝にも皇后にも気に入られていたのでした。


ムラヴィヨフ伯は、会議の後には、皇帝が殆ど常に自分を晩餐に招待すると言う事を誇り、同僚に対して、当然ウイッテ伯に対しても、彼が会話によって新帝を満足せしめたと言う事を語ったりしたのでした。

ムラヴィヨフ伯が外務大臣心得つまり、外務大臣代理に相当する立場になったのは、1897年1月1日、これはロシア暦であると思えます。
よってグレゴリオ暦で言う1月13日です。
wikiでは、外務省支配人と書かれていますが多分、「代理人」とか「代理」とかいう立場だと思います。
また、正式に外務大臣に就任したのは、ロシア暦4月13日、グレゴリオ暦4月25日だと思います。


皇太后マリア・フョードロヴナは、デンマーク王クリスチャン9世の第4子として生まれた人でした。
里帰りするたびに、ムラヴィヨフ伯とは顔を合わせる事となっていたのでしょう。


ムラヴィヨフ伯は、朝廷内接待の得意な人だったようです。一国の大臣まで出世するのですから、すごい事の様に思えます。
ですが、4か月ほど丁稚期間があるのは、誰か外務大臣としての能力を疑った者がいたのかもしれません。

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