第六章 ボスフォラス占領計画と辺境統治策
第四段 ポーランド統治策
ポーランド総督はコーカサス総督と違い、とても人あたりの良い人物が選ばれました。
イメレチンスキー候は良い人、けど悪い人。
1896年の末、ワルシャワ総督グルコ将軍の後任者たるシュワオフ伯爵が卒中で倒れ、そのために辞職しました。
彼は非常に短い在職期間を可もなく不可もなしの程度で終わりました。
しかし、人間としては彼はあらゆる方面から好感を寄せられていました。
殊に士官の間に好評を博した人で、彼は将校たちと一緒に時を過ごし或いは酒宴をする事を好みました。
その後釜に坐った人は、参議院議員イメレチンスキー候でした。この人は立派な優しい人物でありました。
それはトットレベン伯がミハイル・ニコラエヴィッチ大公の後任としてトルコ軍総司令官となった後、トットレベン伯のプレヴナ占領の参謀長として活躍し、相当の手腕を発揮しました。大体において鋭俊な働きと教育の或る才人でありました。
ウイッテ伯は、彼とは大蔵大臣時代に親しく知り合っていたので、この任命を非常に喜ばしく思いました。
彼は参議院の経済局に関係を持った議員だったので大蔵大臣たるウイッテ伯とは絶えず接触の機会が有りました。
イメレンチスキー候は、参議院議員になる以前、露土戦争後のしばらくして軍法会議の長官に任命されていたのでした。
ウイッテ伯の考えでは、彼はポーランド統治の期間中に非常に良好な関係をポーランド側に植え付け、露波人間の相互関係は好都合に運ぶ見込みが充分にありました。
ペテルブルグからの様々な干渉に逢いながらも、彼はポーランドとの間がよく向かうように道を進めたのでした。
彼の婦人となった人は非常に裕福な尊敬に値する婦人で、モルドヴィノワヤ婦人と呼び、深く自分の良人を尊敬していました。
夫人が非常に裕福であった所からイメレチンスキー候はポーランド統治中に駆らり手広い社交生活にも資金に恵まれていたのでした。
イメレチンスキー候には一つの重大な欠点が有りました。
それは婦人にたいする欲情でありました。この事が彼の終わりを早からしめた一部の原因となって、その美しい婦人及び多くの友人多くの友人たちから痛く惜しまれました。
コーカサス総督に選ばれた人が、極端な国民主義政策を執り始めた時、ポーランドでは反対に、文化的・平和的スローガンをロシア国旗の中に掲揚した人物が選ばれた次第でした。
プレヴナは、1877年に勃発した露土戦争の激戦地となった場所です。
ロシア・ルーマニア連合軍は、オスマン帝国とブルガリアの開放を掛けて戦いました。
ロシア側は勝利し、ブルガリアは自治国の地位を与えられました。
オスマン帝国はこの戦いの後、勢力が落ちていきました。(by wiki)
ポーランド総督の人選がコーカサス総督の人選失敗による国民評価を見すえたものであったのは、専制国家でもそんな事が有るんですね。