第六章 ボスフォラス占領計画と辺境統治策
第三段 高加索統治の失敗
コーカサス地方の統治に現地人以外の人物が就任したようですが、うまく行かなかったようです。ロシア帝国の要職の人選がどうも癒着等の結果、適材適所となっていないようです。
コーカサス人に拒否される
この1896年には、12月になって可なり重要な次の事件が起きてしまいました。
12月6日にコーカサス総督シュレメチェフ将軍が病気で退職しました。
シュレメチェフはコーカサス人であり、土地の事情を知悉していましたので、同地で非常に評判の良かった人でありました。
彼はただ優雅であか抜けた文化人で、これという特徴のない人であったのですが、すべての人々から尊敬される種類の人物でした。

この人の後任としては、我々の仲間で「グリグリ」というあだ名を持った参議院議員グリゴリ・ゴリツィン候が任命されました。
この人はまた、非常に几帳面な教養のある清廉の士で、別に「子兎」というあだ名を持っているほどの人物でありました。
そしてこの「子兎」はロシア式人物としての典型を具えていて、極右国家主義者としての特徴が浮き彫り的にくっきりと表れているのでした。
そのほか彼に見られる特徴は、彼の母親がポーランド人で、彼はこの母親に教育されてきた所だから、ポーランド人特有の或る狂熱性が、その物柔らかな性格と錯綜していた事でした。
結局ゴリツィンは、非常に教養の或る、しかし国家的人物としては全く限られた範囲にしか出ていない人物だったと言うべきでしょう。
彼の人格の二重性は、政治的陰謀を嫌う、率直な社会や人々の間に親しい友人達を見出す事が出来ないのでした。
ウイッテ伯は彼がチフリスから程遠からぬベールイ・クリュチでジョルジヤ連隊を指揮していた事を記憶していました。
その時、ウイッテ伯はまだ全くの子供であった時代でした。
彼は連隊長としてよく其の職責を果たしていました。
しかしコーカサスに長く止まることはできませんでした。
それは率直さを特性とするコーカサス人社会から同情をかちうることが出来なかったからでした。
彼はその行動や意見においては非常に竣峭であるこの土地の人々の率直な性情にとっては、あまりに外交官タイプであり過ぎてゆきました。
従ってチフリスはもとよりコーカサスでも総じて良い印象を与えなかった次第でありました。
ゴリツィン候がペテルブルグのフィンランド連隊長になったのは、恰もコーカサス勤務を解かれたためであったと言えるのでした。
彼の最後の職務はオレンブルグ・コサック地方のの長官でありました。
それから軍事参議員となり、後に参議員議員となったのでした。
彼はミハイル・ニコライヴィチ大公から非常に庇護を受けていました。
その理由はウイッテ伯には明らかでした。彼の全経歴はすべてこの大公の引き立てによるものでシュン」レメチェフの病気病気退職後コーカサス総督の職を得たもの、実はこの大公の斡旋によってたのでした。
ゴリツィン候がコーカサスで人気を博さかった事についてはウイッテ伯は既に述べたとおりです。
しかし、ゴリツィン候は、可なり怜悧な人間で、国民主義者という様な点で陛下の同情を得ていることを、ウイッテ伯は当時の空気から鋭敏に感じていたのでした。
しかし、この国民主義思想なるものは、広義の意味から言って、あらゆるロシア人の等しくもっているもので、故ストルイピンが奨励した様な、現今流行りの「国民主義者」と名付けられる、多少とも実質的を帯びた国民主義ではないのであります。
それ故に、かかる主義を以てしたコーカサス当時法は、当時こうした事には無関心であった土着民に非常な反感を与え、そのため彼等の間に発生した独立主義は、1904年~1906年のロシア大動乱時代に全コーカサス人の思考を支配するほどになったのでした。
かくて、ゴリツィン候のコーカサス統治は、直接にはゴリツィン候自身、間接にはロシア国家に対するコーカサス住民の反威を呼び起こした他に如何なる功績をも認められずに終わったのでした。
そして、遂には彼に対する陰謀さへも起こり、彼は負傷して職を辞してしまいました。
この事は彼の就任して数年後の出来事であって、この時は既にコーカサス特有のコーカサス精神が、彼によって可成りの程度に破壊されたのでした。
あらゆる先任者たちは、コーカサス太守としてニコライ一世時代に存在していたウォロンツォフ候をはじめ、すべての土着民、特にキリスト教を信仰する土着民やロシアの王威に心から服従している人々に対して、ロシア人と平等の権利を賦与する様な政策を執ってきました。
それ故、コーカサス人は有事の場合に本国から派遣されたロシア人の為に味方となり勇敢な働きを見せて来たのであります。コーカサス60年戦争の間、この土着民が何時の時代にも、また如何なる場所でも、下は兵卒より上は将校に至るまで、最も優れた模範を示しているのもまた彼等でありました。
そういう例として、我々はここに、オルベリアン侯爵家、アメラフパリ侯爵家、チェフチェバゼ侯爵家、アルグチンスキー侯爵家等などの名前を上げることが出来るのでした。
それ故、歴代のコーカサス統治機関は土着民に対して最も寛大な処置をとり、いやしくも彼等の権利を侵害するような手段に出ないことに努めてきたのでした。
そういう統治法に依って飲み、ロシア帝国に対するコーカサス住民の信頼をかちえたのでした。
ゴリツィン候は、このコーカサスに窮屈な国民主義的見地を導き入れた最初の統治者でした。
もしゴリツィン候が何か別の才能に秀でていたとか、或いは何か改革事業の方に優れていたとすれば彼の主に彼の頑固と自負心、特に兵事方面における自負心による不評判は、もう少し緩和されていたかもしれません。
またもし彼の人格が、例えばグルコ将軍の様に、ポーランドの統治に純粋なロシア型を導き入れてもなお且つポーランド人を従服せしめえた如きものであったならば問題は別でした。
が、彼はこうした方面でも何等の武人的才能や、軍人的勇気を持ち合わせず、また統治的才能も経験を持っていないのでした。
だから、血を見るような事件に際しても何等決然たる処置を取りえず、渡り鳥の如くコーカサスに行き、渡り鳥の如くコーカサスを去ったのでした。
しかもあらゆるコーカサス人のみならず、ロシア人にまでにも合いそうを尽かされたのでした。
ウイッテ伯が今、かく「残酷」とさえ思われる口調を以て述べたのは、彼自身がコーカサスに生まれたコーカサス人であり、あらゆるコーカサスの伝統を知悉するコーカサス人の一人として、コーカサス人はもとより、ロシア人さえも堪えがたいゴリツィン候のコーカサス統治法に持っているからでした。
「うさぎ」を大の大人があだ名に着けられるとなると、日本人なら、「すばしっこい」、「臆病者」、「「逃げ足が速い」そんなイメージなのかなとおもいます。
ロシアではどうなのでしょうか。ロシア式人物とは、どういう人物なのでしょうか、今のところの想像ですが、権威をかざして相手を威嚇し、自分の立場を保とうとする。そんな感じに思っています。そこに子兎ならば、周囲を威嚇するが、絶えず自分の逃げ道を用意している。
これがロシア人ですかね。
極右国家主義者とは、絶えず、「国の為に」とか「国家の威厳が」とか言葉が口に出て来るのでしょうか。
ゴリツィン候は後にカフカス地方でアルメニア人を迫害しています。
その行動がロシアに反抗する反社不逞民族への対応であり、国家の為とロシア人は認識しているのかもしれません。
ロシア人の考えるポーランド人特有の狂熱性って何ですかね。個人的にポーランドの人に狂熱性など感じないのですが。
ストルイピンは1906年よりロシア政府の中枢に坐った政治家です。
国民を統制する政治を行った人です。それに反する人たちを粛清する事で、国民から反感を買い、1911年に暗殺されました。
コーカサス60年戦争は、1817年から始まったロシア帝国の北コーカサス侵略戦争の事でしょうか。1864年まで約50年間戦いは続き、ロシアが征服しました。
どうもウイッテ伯の自分の故郷が、別民族系ロシア人によってうまく統治してもらえなかったことへの不満を述べたかっただけの様にも感じます。
ロシア帝国の中央集権化がうまく行っていないように思えます。
一つの国家内で住む地域で差別があるようです。