ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その048

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第六章 ボスフォラス占領計画と辺境統治策

第二段 御前会議と軍閥(2)

オスマン帝国への侵略計画が始まりました。その中、ウイッテ伯はこの計画に賛同しないと御前会議議事録に書き記してほしいと請うのでした。

侵略作戦遂行

この時、議長としてまたロシア皇帝として臨席した陛下は、何らの意見をも発表せず、ただ色々な質問を発したの身でありました。
しかし、その時の陛下がウイッテ伯と同意で無かったことは想像にかたくないのでした。


一方からはウイッテ伯との意見の交換、また他方ではネリドフ、オブルチェフ、ワンノフスキー等の意見を聴いた結果、陛下はコンスタンチノーブル大使の意見を参酌して結果としたい希望でありました。
結局、この問題はすでに事実上の終結を見る事となりました。


ボスフォラスに兵を進めてロシアに上部ボスフォラス占領の口実を与える様な事件をコンスタンチノーブルに惹き起こすという意見は事実上の決定を見たのでした。
そして、それをまずトルコ皇帝と交渉し、彼がもし我々の味方をするならば特別な保護を約束しようと言うのでした。


かくて、オデッサ及びセヴァストポリから、陸戦隊の一隊が徐々と対岸に上陸し始めたのでした。
また、この陸戦隊がいよいよ動員される機会を駐土大使が見て取った時、彼がロンドン駐在財務官タチシチェフに急報して若干の穀物を買い付けさせる手筈が決まっていました。
そして、タチシチェフはこの急報を、直ちに国立銀行総裁に移牒し、総裁はまた直ちにこれを海軍大臣及び陸軍大臣に急報する事となっていいました。
この時の国立銀行総裁はブレスケでした。彼は1903年にウイッテ伯を大蔵大臣に推薦した人でした。


ネリドフはその陰謀計画、コンスタンチノーブル占領、そのが出来ないまでもボスフォラスだけは物にしようと考えており、その案に熱中しながらコンスタンチノーブルへ出発するのでした。
そして、陸戦隊出動に対する彼の信号は目睫の間に迫っていました。
そのためウイッテ伯はブレスケに、絶えずネドリフの近くに当直官吏を置き、陸戦隊出動の報知を受け取るや否や一刻の猶予もなく定めらえた手筈を実行しうる様に勧めたほどでした。


外務大臣シーシキンは、この問題に関する議事録に、ロシアの行動を正当付ける為、これが必然的結果に対する各方面の一致した意見である旨を記載しようとしました。
ウイッテ伯はこの議事録の計画を聞いた時、如何にしてもこれに賛同し得ない旨の書簡を、シーシキンに送ったのでした。
そえは、ロシアを大きく不幸に導こうとする様な目的には、断じて賛成し得なかったからでした。
それ故、シーシキンに請うて、ウイッテ伯のこれに対する特別の意見を開陳するか、若しくはかかる計画に賛同し得ない理由だけを別に書くか、この二つについて陛下の裁可を仰いでくれるように依頼したのでした。
シーシキンは困難な立場に立ったのでした。
それにもかかわらずウイッテ伯の書簡を陛下に取り次いでくれたのでした。
陛下は意見を入れて、議事録の指し所の目的を転換して、ウイッテ伯の傅賛成論文をそのまま掲載する事を許したのでした。
その論文は、議事録の巻頭に次のような冒頭を以て書きもまれたのでした。
「列強の同意なしにボスフォラスを占領する事は、極めて危険な現時の情勢より見て、有害な結果を醸成するでしょう。…」
しかし、この議事録は、1896年11月27日、陛下の親裁により、ウイッテ伯の反対論を全く許容し難いものとし、前の会議における全員の決議を決定的なものとしたのでした。


ウイッテ伯は勿論、かかる事柄が必ず大きな不幸に終わるべき事を確信していました。
だから当時陛下の信任あつく陛下も逆らう事をされなかったウラヂミール・アレクサンドロヴィチ大公及び前御教育係コンスタンチン・ペトロヴィチ・ボペドノスツェフの両人に対してウイッテ伯の疑惑を表明せざるを得なかったのでした。
しかし、彼等は、このウイッテ伯の疑惑と危惧に対して一言も発しないのでした。
が、ボペドノスツェフは、ウイッテ伯が送った議事録の写しを読み、これに対するウイッテ伯の特別の意見を知るに及んで、11月28日付けでウイッテ伯の所へ、次の書簡を送って来たのでした。
「ご送付のもの誠に有難く拝見、今日御返却申し上げ候。敬具」
自体この如くであったにも拘らず、この二人の影響と全能の神の力の影響とによって、我が陛下はその決心をされたのでした。
ネリドフから、コンスタンチノーブル到着後間もなく送られてきた書簡に対して、かかる謀計の遂行を再考すべき勅命があったのでした。


しかし、陛下は会議後の数日間、ウイッテ伯に対して信用を置かれなかったことは、明らかでありました。

セヴァストポリはクリミア戦争で1855年に放棄しましたが、その後、カルス要塞と引き換えに変換されていたそうです。(by wiki)
1903年にウイッテ伯を推薦したのは、大蔵大臣ではなく、大臣委員会議長かもしてません。


兵隊の移動も始まり、作戦は進められました。駐土大使ブレスケの工作も始まりましたが、ギリギリのところでニコライ二世帝は侵略作戦を中止にしたようです。
何が原因だったのかは、判りません。
ウイッテ伯が言っていたように欧州の列強が見抜いて警告したのかもしれません。
知っている人は、ニコライ二世帝とシーシキン外務大臣だけかもしれません。

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