第六章 ボスフォラス占領計画と辺境統治策
第一段 駐土大使ネリドフの策謀
1896年末、ロシア帝国宮廷にオスマン帝国の権力が衰えてきていると報告がありました。ウイッテ伯はどのように対応するのでしょうか。
ネリドフレポート
1896年の末、陛下が外遊から帰還するや否や、コンスタンチノーブル駐在ロシア大使ネリドフが突然ペテルブルグへ現れました。
それから、ロシアがトルコに対して何等かの策動をしているという噂があちこちに広まっていました。
当時、オットマン帝国は既に可成りの退廃状態にあり、その後いくらもなくしてスルタン・ハミッドの譲歩によって立憲政治の樹立を見たのでした。
しかしこの立憲政治は、オットマン帝国に対して何ら鞏固な国家的基礎をも齎さなかったのでした。もっともトルコ帝国の崩壊過程はかなり久しい前から始まり、過去十年間位はそうした状態に終始して来たのでした。
この過程は様々な国家現象のうちに表れていました。
特に、トルコ帝国内のいたる所でアルメニア人の殺略がおこなわれた事は、その最も代表的な現象と見るべきでしょう。
1896年末、陛下の外遊からのご帰還の少し前にコンスタンチノーブルでアルメニア人に対する虐殺がありました。
それに少し先だって、小アジアでもアルメニア人の殺害がおこなわれているのでした。
かくてネリドフがペテルブルグに現れたので、その前に行われた様々な交渉やパリにおける会議等に結び付けて外務省や一般外交界では、ロシアがトルコに対し何か策動をしていると言う様な噂が高まったのでした。
誠に1896年11月12日、陛下のご帰国一か月と経たないうちにこれ等の噂は、遂にウイッテ伯に陛下へ具申書を呈するに至りました。
ウイッテ伯はトルコ帝国に対する自身の意見を述べ、これに対して兵力を用いる様な事をせず、平和的に解決する事を説いたのでした。
尚、この上書には、いつか陛下に謁見して詳細に説明したい旨をも書き添えました。
しかし、このことについて陛下とウイッテ伯との会談は現実されずに終わってしましました。
斯くするうち、ウイッテ伯は11月21日にネリドフから極秘の書簡を受け取りました。
これにはいつも曖昧模糊とした表現をもって一生涯を終始する職業外交家に特有な漠然たる言い方でトルコ帝国やコンスタンチノーブル並びにスルタンの立場の危機を描き、上部ボスフォラスを占領する権利と可能性を得る機会を作るべきだ、と言う事を提議した物でありました。
オットマン帝国とは、オスマン朝の帝国です。オスマン帝国は、1876年に憲法を制定し、立憲君主国家になりました。1923年にトルコ共和国になります。
スルタン・ハミッドは、アブデュルハミト2世の事と思います。
オスマン帝国でのアルメニア人の大量殺害は、1915年ごろの話がよく耳にします。が、1880年代後半にもアルメニア人の虐待はあったようで、1895年には、欧州にも現状が伝わり、イギリス・フランス・ロシアの関与により、スルタンの圧政は一度は落ち着いていたのでした。(by wiki)
駐土大使のネリドフから、オスマン帝国のスルタンの権力が落ちて来ているので、この機会にボスフォラス海峡に利権を得るべきと提議されたようです。
ロシア人は他国に権威を押し付けて、権力を阻止しておきながら、いざ権力が落ちたのを見計らって利益を得ようとするこの考え方。
ロシア人のこの信頼を裏切るような行動は、もうDNAに刻まれているのでしょうか。