ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その044

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第五章 金貨制度の実施

第六段 参議院の反対

ウイッテ伯が幣制改革を行うに当たり、改革法を参議院議会で審議しました。議会は反対質問の応酬で紛糾しました。ウイッテ伯は奥の手を遣い、改革法案を通し、実施にこぎ着けました。

ウイッテ伯、敵、多し

この幣制改革実施に当たり、ウイッテ伯は最後に次の様な障害を受けるのでした。


1896年4月、ウイッテ伯の提出したこの問題を参議院で審議するに当たり、ウイッテ伯はそこで思いがけない反対にぶつかるのでした。
この反対は勿論、正面から「否」を表明したのでなく、問題を遅延させて自然消滅の結果に陥れようとする反対でありました。
参議院におけるこの反対は、主として議員の大部分がこの問題について全く不案内であったと言う事の他に、さらに二つの原因がありました。


その中の一つは事情をわきまえている日和見的議員で、もう一つはウイッテ伯の政敵です。
その中の一人は、最も尊敬に値するボリス・パウロヴィチ・マンスロフであります。
彼は主として、ウイッテ伯にこの改革実施の能力ありや否やを疑い、物事に対する極端な批判癖かあらウイッテ伯に反対を表明したのでした。
もう一人の反対者はウェルホフスキーで、大蔵大臣時代に金融局長をつとめ、従って財政問題で相当の権威を認められていました。
しかも彼の反対は、まったく個人的立場からの物でした。
何故か彼の物言いぶりは、自分自身を大蔵大臣に擬しているかの如き口調でした。
不幸にも大蔵大臣の椅子に坐っているのはウイッテ伯であって、彼ではないのでした。
従ってウイッテ伯は、彼の議論にどうしても同意することができなかったのでした。
この参議院の審議は徹頭徹尾質問攻めでありました。
ウイッテ伯としてはこれ等の質問に対して答弁し、なお充分な事実的説明を加えるの義務があったのであるのでしたが、ウイッテ伯はあえてこの労を避けるのでした。
何故なれば参議院を通じてこの改革の実行が不可能であることはあまりに見え透いたことであり、従ってウイッテ伯は参議院を素通りさせる決意をしていたのでありました。


かくて、一切の問題が財政委員会で審議されることになるのでした。
この委員会の委員は大部分がウイッテ伯の側に立っている人々でありました。
財政委員及び議長の任命はすべて大蔵大臣の手中にあるからこれは寧ろ自然の事でした。
委員の顔ぶれは、かかる問題について全然素人でない者ばかりが選ばれました。


金貨制度実施問題について、参議院が再びウイッテ伯をてこずらせるであろうと知ったウイッテ伯は、参議院貴重ミハイル・ニコラエヴィチ大公が必要な委員の出席を命令するようにしたのでした。
ウイッテ伯の奏請を聴いた陛下は、1897年1月2日、自ら臨席のもとに非常招集の形で財政委員会を招集したのでした。
幣制改革の運命は、事実この会議で決定されたのでした。
換言するならば、あらゆる方面においてロシアを強固ならしめた金本位通貨制度は、遂にこの会議によってロシア帝国に実施されたのでした。


この改革実施に当たり、ウイッテ伯には何時も只一つの力のみが味方でありました。
只一つではありますが、何物にもまさる皇帝の信任でありました。
その故に、ウイッテ伯は、ここにもう一度繰り返しますが、金貨制度においてニコライ二世陛下から大恩をこうむる立場になったのでした。

和(わ)をもちいるを貴(とう)とす、仵(さから)う無(な)きを宗(むね)とす。
1400年前の日本の憲法の第一条の一部である。
組織や集団の調和を大事にする事、不必要な争いを行わない事を基本とする事。
という意味である。


古今東西どこでも、利己的に不必要な争いを好む人々はいるようである。
せっかくの幣制改革を認識し合える場であった参議院会議を話し合い・確認を妨害し、只、改革を除く行動をする者が議会の存在を無にしてしまってる。


ウイッテ伯はこの議会の動きを抑える為に特権を使い、委員会を開催し改革案を通してしまった。結局議会制を無にしてしまっている。

これらが社会の腐敗を生むのだと思う。

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