第五章 金貨制度の実施
第五段 幣制改革と日露戦争
ウイッテ伯は正貨制度を行うに当たり、銀本位制でなく金本位制にしたのは銀は、いずれ価値が下落するであろうと考えての事でした。
しかし、周囲の反対は非常に多いのでした。
ウイッテ伯の先見性
もし、この幣制改革が日露開戦の当時まだ実施されていなかったとしたら、あらゆる財政的・経済的恐慌は救われなかったでしょう。
これまで数十年間に達成した良好な経済状態は、すべて水泡に帰していたでしょう。
この改革前までロシアの財政問題を司る者は、ブンゲとかヴイシネグラドスキーとかいうウイッテ伯の先輩達でありますが、彼等の功績は比較的には著しいものではありませんでした。
当時まだ、幣制改革の根本計画は、その細目条項はさて措いて一般的大網についてすらも何もできていない状態でした。
かくてこの大改革のすべては、陛下の信任と支持とにより、ウイッテ伯によって完成され、ウイッテ伯によって世論の反対に屈せず実施したものでした。
そしてこの改革こそは、ニコライ二世統治の基礎を強固にするに役立つ改革の一つになったのでした。
この改革に対しては、ロシア人の殆どすべてが反対していました。第一には彼等の無知から、第二にはこうしたことに対する不慣れから、そして第三には、若干の利己心からくる個人的立場からでした。
無知と言う事については、当時こういう理論的問題がロシアの経済学者・財政学者の大部分にとってさえ全く未知の問題であったからでした。
事実、ロシアではクリミア戦争以来全く紙幣流通制度にのみ慣らされていて正貨流通の理論と実際に対する理解は、教養ある人々の間にすらも全く欠如していたのでした。
慢性病にかかった人間が自分の全細胞組織が次第次第に浸食されてゆくのをあまり気にかけないが如く、あらゆるロシア人はこの紙幣制度に慣れ親しみしきってていたのでした。
主として輸出商人や農村の地主たちは、紙幣制度が彼等にとって利益であるように考えていたのでした。
それは、紙幣の価値が下落すればその乱調子に乗じて、同じ生産品に対してより多くの売価を持ちうると認識していたのでした。
この考えは無論誤りでした。
何故ならば、ルーブルの相場の下落によって輸出商が穀物を買って、より多くのルーブルを得たところで、その穀物の生産には、より多くのルーブルを支出しているからであります。
けれども、こうした計算は財政家でも経済家でもない地主たとの全く考え及ばぬ事でありました。
かくして、ウイッテ伯は因習を固執するあらゆるロシア人の反対を被ったのでした。
当時と雖も正貨制度の紙幣制度の優るのを知っている若干の人々がいるにはいました。
しかし、これ等の人々もまた、ウイッテ伯の熱意と決心とに恐れを抱き、兎も角も反対したのでした。しかし、ウイッテ伯の熱意と決心とは遂に成功を見たのでした。
ウイッテ伯はこの経験によって、ロシア国家におけるあらゆる改革は疾風迅雷的に行わなければならぬ事を知るのでした。
ウイッテ伯の疾風迅雷的な性格は当時すでに多くの人々が知悉していたのでした。
この当時の人々は、この改革が突如として実行されはしないかとウイッテ伯のやり方を極度に恐れていたようでした。
その他この改革に反対した人々としては、様々な原因から、ウイッテ伯を失脚させえないまでも声望を落とさせたいと希望を持っている人達でした。
銀の価値は既に甚だしく低落していたにも拘わらず、これ等の財政家の大部分は、これを以て一時的の現象であり、何時かは恢復の時期があると考えているのでした。
少なくともこれ以下に低落する事は断じてないと想像し、信じようとしているのでした。
ところがウイッテ伯は、銀の価値は漸次暴落して行き、何時かは貴金属たる名称すらも失ってしまう時期の来ることを信じていたのでした。
クリミア戦争以来、ロシアでは紙幣を多量に刷っていたのかもしれません。
よってインフレ気味な社会だったのかもしてません。
それを改修するために、ウイッテ伯は金本位制に切り替えようとしたのでしょう。
ウイッテ伯は金本位制のお陰て敗戦後の経済は安定していたと言いますが、普通は貨幣不足で経済は不安定になります。
管理通貨制の方が通貨を柔軟に刷る事が出来るので、臨時対応はしやすくなります。
イギリスも戦時対応の為に金本位制をやめて、管理通貨制にきりかえました。
ロシアは金を大量に保有していたのかもしてません。
フランスは、いずれ銀の価値が下落する事を予想していたのかもしれません。
ロシアの金本位制は、銀の下落の加速につながると考えたのではないでしょうか。