ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その033

ロシアの歴史 タイトルロシア

第三章 日露間の朝鮮問題協約

第八段 私の李鴻章買収説

戴冠式も終わり、ニジニ・ノヴゴロドではロシア帝国最大の博覧会が始まりました。ニコライ二世陛下も李鴻章も観覧しに来ました。

戴冠式後の出来事

ウイッテ伯は、日本との通商航海条約の調印を終えると、ニジニ・ノヴゴロドへ出発しました。
同地で開かれる博覧会の開会式を行うためでした。
この博覧会は、計画は申し分なかったのですが、人気はあまり引き立っていませんでした。
一つには戴冠式が国民の注意を集中してしまっていて、その直後の開催であった為と、その委員長であったチミリャゼフが非常に官僚主義的であり、机上の応酬にのみ囚われて万事が手遅れとなり、機を逸することの多かったためでした。
ウイッテ伯は、部下から敏腕家のコワリョフスキーを遣い応援させ、ようやく会場の整頓を完了させたという始末でした。


李鴻章は、博覧会開会後、間もなくして同地にやって来ました。
彼はすべての物を驚異の眼をもって見た様子でした。
特に科学や器械に関するパピリオンに興味を呼び起こしたようでした。
そして数日後、彼はロシアを辞してヨーロッパに向かうのでした。

欧州の人々は、アジアの文化、特に清国の文化を知る事のないので、李鴻章一行をみて奇異なものを見る様子で、半ば野蛮人として彼らを待遇したのは、実に止むを得ない事でした。


東支鉄道敷設の細目協定の為にベルリンへ向かっていたロマノフは、清国全権との間に滞りなく協定を遂げて帰ってきました。その協約は直ちに批准されました。


欧州諸国はこの事に関して、李鴻章がロシア政府から賄賂を貰ったという風説を伝えていました。
ですが、それはまったく虚説です。
この時、李鴻章はロシア政府から賄賂を収受するどころか、そんな事は思いもよらぬことでした。


ニコライ二世陛下及び皇后陛下は、7月17日に博覧会にご到着されました。
両陛下は三日間同地に滞在して、詳細に観覧されました。


この頃あたりから、陛下がウイッテ伯に対する態度にやや冷淡なところがある事を発見しました。
そして永い間の官吏生活の経験から、ウイッテ伯は何かの中傷が行われていることに気づくのでした。

しかし、それが如何なる方面から来ているかは、全く見当がつきませんでした。
正直に言えばロバノフ候こそ、彼に対して不快を感じる理由を持つ第一人者と思われました。
それは清国との交渉を開始して以来、ウイッテ伯の所為は心ならずも、時々候の職権内に立ち入った観があったかあらでした。

ですが、一方候の人格を思うと、彼が宮廷内の陰謀などに興味を見せるにはあまりにも高潔であり、ウイッテ伯は遂にそうした推測を刷る事へ恥ずべきであると思うに至ったのでした。

日本との通商航海条約というのは何なのかは、判りませんでした。


ニジニ・ノヴゴロドはロシアにある都市です。
1896年にロシア最大ともいう博覧会が5月末から10月にかけて開かれました。
このの時にロシア初、国産自動車が発表されました。
日本の最も古い自動車会社は1907年発動機製造会社(ダイハツ)創設なので、10年以上進んでいたようです。


李鴻章が協約を結んだのは、ロシアから賄賂を貰ったからだと言いうのは、ウェキペディアにも書かれていることです。
ですが、ウイッテ伯が言っているように清国側は喜んでロシア側の提案を受け入れたと思います。

欧州列強ならまだしも、東洋の国家日本に戦争で負けるなど、清国のメンツが許せるわけがないのです。
そのメンツを保つためなら、皇帝の出身の満州を外国に浸食させてもかまわないと思えるぐらいだったの思います。


このころからニコライ二世帝のウイッテ伯への対応が、冷たくなってきたようでです。
誰かが、陛下に風評を流しているのだろうとウイッテ伯は見抜きます。

ウイッテ伯は手柄を独り占めしすぎたのだと思います。
宮廷内の皇族・貴族たちに反感を買ったのです。

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