第三章 日露間の朝鮮問題協約
第六段 日露間の朝鮮問題協約
露清条約を結ぼうとしていると同時期に、ロシアは日本とも協約を結ぶ交渉をしていました。いわゆる「山縣・ロバノフ協定」です。
ロシアの利益
モスクワでは、日本との間に一つの協約が調印されました。
この協約に関する交渉は主としてロバノフ候が担当していました。
ウイッテ伯も関与しないではありませんでしたが、彼の協力は第二義的なものでした。
この協約によってロシアと日本とは、朝鮮における各自の勢力を整理分割することになりましたが、大体においてロシアにとって甚だ都合の良いものでした。
日本の代表は異議無くというよりも寧ろ悦んでこの協約に同意しました。
ロシアはこの協約によって朝鮮に軍事顧問をおきなお数百の軍隊を置く事を得ることになりました。
そこで従来派遣してあった財政顧問と合わせて、ロシアは朝鮮の軍事・財政に関して殆ど支配的権力を握ったわけでした。
尤もこの協約は、ロシアも日本も朝鮮に対して平等の立場にある事を主意としたものでした。従って商工業の方面においては日本が多くの便益を得たことは勿論でした。
借款その他の金銭関係においては日本に許されていない事はロシアにも許されていないという、全然平等の立場をとる事になりました。
それにしてもこの協約はロシアの成功でした。
さらに特筆すべきはこの協約が全然独立国である朝鮮に対する日露両国の勢力範囲を設定した事でした。
朝鮮はそれまで清国の主権の下にある自治国の如くに見られていたのであるが、日清戦役の結果日本の主張によって完全な独立国となったのでした。
日本との協約というのは、一般的に「山縣・ロバノフ協定」と呼ばれているこれの事でしょう。
1896年6月9日に結びました。
ウイッテ伯はこの協約調印に、全くと言っていいほど関わっていなかったと思います。
かかわっていたなら、当時の朝鮮の現状を調べ上げていると思えるからです。
そうであったなら、協約の内容がこんなものでは済まなかったと思います。
当時の朝鮮は、国王高宗が国を捨ててロシア公使館に逃げ込んでいた時期です。
1896年2月11日に起きた露館播遷です。
高宗を手中に収めた状態なので、国王に謁見するにしても、ロシアの監視が有る状態でした。
財政顧問を派遣していたというよりも、度支衙門(大蔵省に当たる)を運営していた状態でした。
雲山の金鉱採掘権、京仁線敷設権、漢城の電灯・電話・電車の敷設権、慶源・鍾城両処の鉱山採掘権などを、バーゲンセールよろしく国の財産を安易に売りまくったのは、ロシア人の仕業だと思います。
当時、イギリス人の弁護士ジョン・マクレヴィ・ブラウンという人が関税のアドバイサーとして赴任していました。
当時のロバート弁護士の資料とか残ってないのでしょうかね。見てみたいですね。
露館播遷の時、ロシアは、200名以上の兵隊を漢城に突入させてます。
協約が無ければいくらでも兵隊を派遣できる状態だったんです。
露館播遷の前と比べたら、協約後のロシアの朝鮮での立場は有利になったと思えるかもしれませんが、露館播遷中のロシアと朝鮮王国の関係は、国王を手中にし、度支衙門でやりたい放題、ほとんどロシアの衛星国でした。
駐朝ロシア公使ウェーバーは、本国に状況と経緯をしっかり報告していなかったのだと思います。
状況をウイッテ伯が知っていたら、ウラジオストックから元山ぐらいまで路線を引く計画を協定にぶち込んできていたと思います。
その後釜山まで路線は延ばされ、ロシアの軍港の建設も視野に入れて計画したかもしれません。
