ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その029

ロシアの歴史 タイトルロシア

第三章 日露間の朝鮮問題協約

第四段 不祥事件調査委員会

ホドゥインカの惨劇事件は、ついに責任者が罰せられました。どのような結末になったのでしょうか。

不祥事の責任者の行方

不祥事の審査は、司法大臣ニコライ・ムラヴィヨフに命じられました。
彼は事件の経過とその実況を極めて精細に調べました。
ですが肝心の責任の所在に関する彼の説明は殆ど判断を欠いていました。
それは彼がかつてセルゲイ大公から恩顧を受けた人であり、司法大臣の要職に就くに至ったのも大公の推薦に依ったものであるからだと、噂されました。
なによりも事件の審査をムラヴィヨフに命じられたこと自体が、セルゲイ大公の勢力の優越さを示すものであると思われました。


大公側の意見が通ると思われていましたが、間もなく覆されました。
今度は宮内大臣の勢力というよりも、背後にいる皇太后の勢力が台頭してきました。
事件の審査官が全司法大臣バーレン伯に換えられました。
バーレン伯は、
「事件は素より警察の手落ちから起こった事であって、その責任はモスクワ官憲の怠慢にある。これを宮内大臣の責任に帰するのは当を得ない。」
と、まとめました。
当時、伯は、
「どうも大公達を責任ある要職に置くのは良くない事だ。そんな場合に何か騒動の起こらなかった例はない。」
などと公言していて、皇族一同から反感を招いていました。


結局事件の責任の行方は、どちらの手落ちだったかと言う事はついに明白にされないまま、安寧維持の責任者である警視総監一人を犠牲にして、ウラソフスキーが罷免されて事件は結末をつげたのでした。

ウイティ伯は、もっと詳しく事の顛末や責任の所在を明らかにし、尚、二千人の死傷者の弔意するの道を尽くしてこそ、真の民を愛する聖意を披露しべきではないかと思うのでした。

今回の事件のほぼ五年前、1891年5月11日、日本で大津事件というのが起きてます。
ニコライ二世帝がまだ皇太子であった頃で、アジア各地を漫遊している最中、日本に立ち寄った時の事です。
滋賀県大津町に立ち寄った時に警備をしていた警官に皇太子が突然切り付けられ、怪我をしました。
犯人はすぐに捕まりました。

ロシア側の人たちは犯人を死刑にするように求めました。日本の政府の人々もロシアの圧力に押され、死刑にするように求めました。


犯人を死刑にするように圧力をかけられていた日本の裁判所は刑法に外国皇族に関する規定がない、と言う事で一般人に対する誅殺未遂事件として裁かれ、無期懲役の判決が言い渡されたのでした。(by wiki)

皇族一人の殺傷事件では死刑を要求し、国人2000人が死傷に至った事件では役職罷免、随分と命の重さに違いをつけてくれたものだと思います。

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