ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その028

ロシアの歴史 タイトルロシア

第三章 日露間の朝鮮問題協約

1896年5月30日、ホドゥインカ原での祝賀行事
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記事内容とは離れてしまいますが、当時のロシア人男性のファッションスタイルはマリンキャップに革の長靴、ズボンの裾はその中に入れている。6月直前だというのに分厚い外套を羽織っています。
ウシャンカをかぶっている人は見当たらない。ウシャンカは季節ものかな。

第三段 椿事の責任あらそい

ホドゥインカの悲劇の責任者は誰なのか。皇帝親族の大公と信任厚い権勢家の大臣が責任の言い争いが始まってしまいました。

責任は踊る

ホドゥインカの悲劇について、一体この不祥事はどうして起きたのだろう。
幾人が責任を負うべきであろう。やはり当局の用意が周到でなかった結果には違いないのでしょう。
ですが、誰が罪を負うべきかが判然としないまま時間が過ぎていきました。


当時、モスクワの警視総監はウラソフスキー大佐でした。
バルチック沿岸のリガ市の警察部長であった人でした。敏腕家として総督大公に推薦する者はいて、この職に就いていました。
推薦者の言う通り、ずば抜けた能力を持っていました。
上長の意を迎える為なら、何でもやってします悪党タイプでモスクワに来ると直ぐに大公家へ食い込んで家人の如く立ち振る舞っていました。
表面では忠実を装い、陰では悪辣な手段をふるうのでした。モスクワの治安が維持されている様に見えてい居たのも暴圧と詐謀の使い分けの結果であって、警察部内の賄賂公行の悪例を作ったのは彼でありました。


今回の件が世間に知られるようになり、中には警察の無能を責める人たちが現れました。
その批判に警察は豪然といいな経ちました。
「警察の取り締まり方が悪いとは何事である。その事件で一番悪いのは、食物を見ると狂人の様に殺到して押し合いを始めて自ら転んだり負傷したりする愚民どもである。
だが、もし官憲の方にも何等かの手落ちがあったとすれば、それは宮内省の役人が悪いのだ。
賜僎や娯楽の設備を担当したのは彼等であって、警察は最初から式場内の事には無関係だったのである。
その証拠には、警察で取り締まって式場へ聞くまでの通路とかまた式場の周囲には何事もなかった。」
宮内省側の関係者が劇昂したのは当然でした。
責任のなすり合い・水掛け論が沸騰してゆきました。
この状況でモスクワ提督セルゲイ大公が容喙して、自分の部下である警察を弁護し始めたので、論争はますます大きくなるのでした。


もし、爵位やら身分が関係ない事であったなら、責任の帰着は第一に安全担当のモスクワ提督であり、第二に式典担当の宮内大臣であったでしょう。


宮内大臣ウォロンツォフ・ダシコフ伯は、先帝アレクサンドル三世に時代から引き続き宮内大臣の職にあって、現帝の信任も厚く、特に皇太后陛下の寵遇を得てる老臣でした。
ホドゥインカ事件が次第に話題に上り始め、単なる下僚同士の言い争いでなく、セルゲイ大公が容喙してその責任を宮内省に転換しようとする態度を示すに至ったので、伯もまた黙示できなくなってしまいました。
「宮内省の官吏と警察官とはおのずと職責は別である。
秩序の維持はどこまでも警察の責任であり、今回の大雑踏・大混乱を惹き起こしたのは民衆を制止でいなかった警察の無能が原因である。
また、上官である総督大公の責任である」
と主張し始めてしまうのでした。


一方は皇帝の近親の皇后の妹君の夫、もう一方は先代陛下・皇太后の信任厚い権勢家、この二方の争いは結論がまとまる事無く大きくなるばかりでした。
この大公と大臣の確執は、ある意味で皇后と皇太后の勢力の消長の有様になってきました。
理屈だけで言えば容易に解決できる問題でしたが、勢力の強弱をみて向背を定める事を秘訣と心得ている官僚の輩が去就に迷ってい居る間に、事態がますます紛糾して底止することがないのでした。


そして遂に審査官を任命して事態を調査することになるのでした。

会場であるホドゥインカ原は、

  • 1キロ平方メートルぐらいの広さであったらしい。
  • 普段は、モスクワ守備隊の練習場として使われていた。整備されておらず、でこぼこで足元はつまずきやすかった。
  • 大規模なイベントがある時はこの場所を使う事が習わしだった。先代の皇帝の戴冠祝賀会も、先々代の皇帝の時もこの場所が使われていた。
  • もとは、モスクワの町を造るのに必要な粘土や砂を採取する場所であった。
  • よって大きなくぼ地が存在しており、くぼ地は50~60メートルぐらいの幅があった。段差の傾斜は垂直に近かった。(深さは不明。)

〈RUSSIA BEYOND ホドゥインカの大惨事:大群衆の将棋倒しで終わった戴冠式〉より  

祝賀会の設営は、

                                  

  • 賜饌と娯楽のために、蜂蜜1万樽、ビール3万樽、多数の仮設劇場、ショーブース等が用意された。
  • 引き出物は、ニコライのモノグラムが入ったスパイスブレッド、ソーセージ、お菓子とクルミ、モスクワの有名なパン屋「フィリッポフ」のロールパン、新帝のモノグラムが入ったエナメルの記念マグカップ、これらの品がまとめてスカーフに包まれていた。
  • 引き出物を手渡す屋台がモスクワの町の端から、ヴァガニコフスコエ墓地までの間にほぼ一列に並んでいた。(どれぐらいの距離なのか不明)
  • 屋台はくぼ地付近にも設営されており、屋台とくぼ地の間が20~30歩ほどの幅しかない状態だった。(ここが惨劇の現場になる)

〈RUSSIA BEYOND ホドゥインカの大惨事:大群衆の将棋倒しで終わった戴冠式〉より 

どの様にして事件は起きたか

  • 祝賀会の前日、5月29日の昼頃から民衆は集まり始めていた。
  • 深夜、民衆は足の踏み場もないくらいに膨れ上がっていた。
  • 民衆はぎゅうぎゅう押し合いへし合いし、子供たちは当然耐えられず、大人たちは肩の上まで待避させていた。
  • 圧迫された人々の中には、失神する者もいたが、倒れる場所の無いのでそのまま立っている状態だった。
  • 引き出物配布の時間になり、祝賀会の役員が配り始めた。
    群衆はそれに気づき、屋台に殺到し、より圧迫は強まり、一部のの物は足を取られ崩れた。他の者は彼らを避けられず、踏みつけるしかなかった。
  • 祝賀会の役員は引き出物を民衆に放り投げて手渡し始めた。状況はさらに悪化した。
  • 引き出物を配布し始めて10数分後、コサック騎兵が群衆を蹴散らし、騒乱を抑え始めた。

後にはホドゥインカ原のいたるところで犠牲者はいた。とくにくぼ地で発見された。
騒乱の最中突き出された人たちだった。また、井戸があったのだが、そこには27人が転落して窒息死していた。
死者は主にヴァガニコフスコエ墓地に運ばれた。

公式の推定でこの惨劇の犠牲者は、死者1389人、負傷者900人以上。モスクワ当局は被害者のほんの一部しか数えていないと思えた。

〈RUSSIA BEYOND ホドゥインカの大惨事:大群衆の将棋倒しで終わった戴冠式〉より

158人の死傷者を出した韓国・梨泰院の惨劇では、20平米メートルに300人いたそうです。1平米メートル当たり15人でした。
左右建物で移動できず、前後の入り口から人が殺到してしまいました。全く逃げ場が無かったでしょう。


ホドゥインカ原の場合は、1キロ平方メートルの敷地に40万人ほどいたのではないかと言われています。
1平方メートルあたり0.4人です。周りは開けていたと思いますが、真ん中あたりだと人が壁となってしまったのだと思います。
日本のコミックマーケットというイベントでは1日当たり20万人参加するそうです。
販売場がどれくらいの広さで、何人ぐらい集まるかわかりませんが、写真など見ると㎡たたり一人はいるようには見えます。
誘導員も確保されていて、集まった人たちも比較的によく指示に従うのだと思います。私の知る限りでは、圧死とかはないようです。


ホドゥインカもそう思うと、ウイティ伯が考える様に宮内省の屋台の配置ミスと警察の誘導ミスが原因と考えるのが妥当でしょう。

日本の皇室では、慶事の際にボンボニエールが引き出物として配られることがよくあるそうです。純銀製だったりするそうです。ボンボニエールていうのは、砂糖菓子入れですね。

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