ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その027

ロシアの歴史 タイトルロシア

第三章 日露間の朝鮮問題協約

第二段 李鴻章の物語

セルゲイ・アレクサンドロヴィチ太公
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公 on wiki
李鴻章
李鴻章 on wiki

ホドゥインカの惨事のあった現場にやって来た李鴻章が言い張った言葉とは。その言葉を聞いたウイッテ伯はどう思うのか。東西帝国の家臣の考えの違いが見えて来る。

どちらが進んだ考え方か

そのうちに李鴻章の馬車が会場に到着しました。
彼はウイッテ伯の側に来ると直ぐに問うのでした。
「今朝ここで大混雑の為に二千余人の死傷者を出した大惨事があったというのは真実ですか。」
「それは事実です。」
ウイッテ伯は、その語気によって彼が早くも詳細を知悉していることを察して簡単に答えました。


「それではその災禍の有った事を詳細に陛下の上聞に達するのですか?」
「それは勿論奏上する。いや、もう夙に事件の起こった時に上聞に達したものと信じている。」
すると、李鴻章は頭を左右にふって、
「どうも貴下の国の政治家達はまだ経験が足りないようである。
私が直隷省の総督であった頃、管内に流行り病が盛んに猖獗して毎日数千の死者を出したことがあった。
しかし、私はいつも管内は静穏で民衆は生を楽しんでいるという様な報告をしていた。
どうせ救済の方法の無いものを、事事しく報告して徒に君主の頭を悩ましたところで仕方がない事ではないか。」
と得々としている彼を見ながら、ウイッテ伯は「我々の方が進歩しているな」と思うのでした。


暫くして陛下も皇族方も到着して祭典は予定の通り進行しました。
音楽と歓喜の声はあちこちにわき起きて、今朝の惨事は跡形も止めない様な風でした。
ただ、陛下の顔色は聊か暗影を見るのみでした。


ウイッテ伯は密かに思うのでした。
「もし陛下をして心の赴くままに行動させたなら、こんなお祭り騒ぎの代わりに、きっと厳粛な祈祷式を行ったであろう。
彼をして心にもない道を行かしめるのは必ず或る悪性の忠言であろう。」
こうした忠言を与えた本尊はきっと、モスクワ総督セルゲイ大公であろうとは誰にも推測できることでした。
セルゲイ大公は皇帝の近親である上に、その妃は皇后の妹君でした。
そうした縁故から、ニコライ二世帝統治の初めから自分がモスクワ提督として暗殺者の凶手に斃れるまで、常に陛下の意を左右する力を持っていた人でした。
ホドゥインカの惨事は、官僚政治家の常套手段としてこれを世間の耳目から隠蔽して暗中に葬り去る計画であったことは明瞭でした。
モスクワの内外に高まったきょうきょうたる噂の声は、この問題を隠すによしなかったのでした。
これはまた宮中府中の高官たちの権力争いの種になるのでした。

セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は、1905年2月、詩人に投げつけられた爆弾で爆死してしまいました。
日露戦争の最中です。ロシア国内は、不穏な空気が蔓延していました。

李鴻章は1871年 ~1895年に直隷総督に就任していました。
直隷省・河南省・山東省の軍政・民政の両方を統括する職務でした。
日清戦争後、要職から外れていました。


「どうせ救済の方法が無いのだから、報告して君主を悩ましたところで仕方がない事ではないか。」なかなかインパクトのある発言です。
それでも民衆の為に苦労する事と、その事態を報告するの事、それがその地を治める者の使命だと私は思います。李鴻章には、仁心も忠心の無いように感じます。


ウイッテ伯は「我々の方が進歩している」と思うわけですが、国内外に対して惨劇の隠蔽工作をするのでした。
〈RUSSIA BEYOND ホドゥインカの大惨事:大群衆の将棋倒しで終わった戴冠式〉では、隠蔽工作の一つとして、報道機関に検閲を掛けていた事を記しています。

《その日のうちにギリャロフスキーは、「ロシア報知」にルポを書いた。翌5月31日、それは同紙に掲載された。ホドゥインカの悲劇に関する唯一のルポだった。というのは、この悲劇について書くことは禁じられ、モスクワ総督のセルゲイ大公は、執筆の許可を「ロシア報知」だけに与えたからだ。》


李鴻章の場合は「どうせ結果は変わらないのだから」という開き直り、ロシアの場合は「失態を知られたくないから」です。
どちらが進んでいるかなど解らなくなります。

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