ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その026

ロシアの歴史 タイトルロシア

第三章 日露間の朝鮮問題協約

1896年5月30日、ホドゥインカ原での祝賀行事
             on Russia Beyoud

第一段 モスクワ戴冠式の椿事

ウイッテ伯回想記、第3章に突入。ニコライ二世帝の戴冠式で頭上王冠を載せ、世界中に皇帝である事を知らしめたのですが、とある椿事が起こります。

ウイッテ伯の憂鬱

皇帝の戴冠式は、ロバノフ家がロシアに君臨して以来の儀式に従い行われました。
ただ、この大典に伴って起きた一つの悲惨事があったのでした。


モスクワ近郊のホドゥインカに園遊会が催され、群衆に賜僎・宴楽の催しがあって、正午には陛下がここに親臨して群衆の祝賀を受け、また人民の嬉遊する有様をご覧になる筈になっていたのでした。
ウイッテ伯ほか臣下達もその時刻に同所に参集する事になっていましたにで、伯は馬車を駆って式場に向かいました。
ですが、途中甚だ忌まわしい風説を耳にしたのでした。

ホドゥインカで朝未明から来集した民衆の為に大混雑・大混乱を生じ、そのために2千人あまりの死傷者を出したと言う事でした。
ウイッテ伯は、憂鬱は気分になり、悩ましい問題が頭によぎりました。
多数の死傷者を如何に取り扱っているであろうかと言う事です。
死者の死体は如何に処置され、重傷を負うてまだ死なぬ者を、具合よく病院に収容する事が出来たであろうか。
またこの椿事の為に、この芽出度い祝賀が弔祭と変わるのではないか。
そう思うと憂鬱にならざるを得ないのでした。
現場に到着してみると、意外な風景を目撃するのでした。


すべては取り片づけられて、そんな惨事があったらしくもみえないほどに清らかに掃除されていました。
ですが参集している人々は、いづれもその惨事の事を聞き知っているので、誰の顔を見ても晴れやかではありませんでした。

戴冠式 は1896年5月26日にモスクワのウスペンスキー大聖堂で行われました。
悲惨な椿事があったとする祝賀会は、5月30日です。


ホドゥインカは当時、モスクワ守備隊が演習を行う場であり、何か大規模なイベントあればここが利用されるのが習わしでした。
この祝賀会で賜僎・宴楽の為にはちみつ1万樽・ビール3万樽・多数の仮設劇場・ショーブースなどが用意されてました。
また、ご祝儀用のニコライ二世帝のモノグラムが入ったスパイスブレッド、ソーセージ、お菓子とクルミ、モスクワの有名なパン屋「フィリッポフ」のロールパン、新帝のモノグラムが入ったエナメルの記念マグカップがひとまとめにされてスカーフに包み、民衆に配る用意がされていました。

会場は広さが1平方キロメートルほどの面積であり、そこに40万人ぐらい集まったのではないかともいわれています。
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の副官ウラジーミル・ジュンコフスキーの回想記によると、「野原全体が群衆で立錐の余地もなかった」と表現されているそうです。

セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は、悲劇について知らされると、惨事の跡を直ちに取り除くようにと命じた。
ニコライ2世帝と皇后は、午後2時に到着する予定だったので、このときまでにすべてが正常に復するつもりでした。(ウイッテ伯の回想記では、正午には陛下が会場に到着すると記しています。)
「RUSSIA BEYOND ホドゥインカの大惨事:大群衆の将棋倒しで終わった戴冠式」より

ウイッテ伯が憂鬱な問題としていた事は、セルゲイ大公によって処理されていたようです。

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