第二章 李鴻章と東支鉄道利権交渉

第三段 シベリア大鉄道問題
シベリア鉄道はバイカル湖の東側まで工事は完成し、終着地点のウラジオストックへはどのルートを選ぶべきか決める時が来ました。
新帝の戴冠式を控えて
ニコライ二世帝即位の戴冠式が行われる時が来ました。
式礼によって親交のある世界の各国は皇族または大官を派遣して、この盛儀に参列しました。
清国からは李鴻章を派遣するという通告がありました。
李鴻章は当時清国では官位権勢共に比肩する者のない実に国家柱石の大臣であると、ウイッテ伯は評価していました。
清国がこういう大臣を派遣するのは異例な事でした。
日清戦争の終局した後にロシアが日本に圧力を加え、清国の領土保全と外積募集に尽力したことで、新皇帝に謝意を表す意味であると考えられました。
戴冠式は1896年5月26日モスクワのウスペンスキー大聖堂で行われました。
当初、清国は戴冠式に布政使王之春を派遣つもりでいましたが、ロシア政府から欽差大臣李鴻章の派遣以外受け入れがたいと示唆されていたのいう説話もあります。
露清銀行は1895年後半に設立されました。
フランスの銀行4行で割合5/8、ロシアの銀行1行割合3/8、総額600万ルーブルでした。
理事会はロシアの要人で占めていて発言権はロシアにありました。
民間の企業という触れ込みでしたが、ほぼ、ロシア政府の機関とみて間違いありません。
路線の行方
シベリア大鉄道の工事は着々と進捗しました。
遠くバイカル湖の東側まで完成し、その先をどの方向に向かって敷設するか決定せねばならない時が迫っていました。
ウイッテ伯が、新たに設立した露清間の親善関係が、この鉄道路線を蒙古・満州を貫通して直接にウラジオストックに向ける方が良いと考えるのは、不思議な事ではありませんでした。
同鉄道はその完成期日を著しく短縮することが出来るばかりでなく、それによって東は日本及び極東の各地、西はロシア並びに欧州の各地を連結して、名実ともに世界的交通路となり得るのでした。
この目的を達するには相互間の商業的利益を基調とした平和手段に依らなければならないことは勿論でした。
シベリア鉄道をウラジオストックに通ずる前に、キャクタを過ぎて直に北京に通ずる線路を敷設する方がはるかに重要な意義があるという説が広まって、
朝廷内でも可なり勢力を持つようになっていました。
これは、ブリヤート人であるドクトル・パドマエフの宣伝している者でした。
ウイッテ伯は、この案には反対でした。
その理由は第一に、シベリア鉄道は最初から国内の東西を連結する事を第一義として計画されたものでありました。
またアレクサンドル三世帝は勿論ニコライ二世にしても、この鉄道は経済的・協業的に利用する事を主として、決して軍事的または政治的に利用する遺志の無かったものでした。
第二にシベリア鉄道を直通することになると、各国が決してこれを黙認する道理がないからです。
〈第一段 馬関条約とロシアの干渉(1)〉でも書きましたが、シベリア大鉄道は未完成な部分も多く進路決定が切羽詰まっている状態ではなかったと思います。
確かに進路確約は早い方が良く、計画が立てやすいのは確かです。
1880年代後半アレクサンドル三世帝は
「政府は、この豊かながらも未開の地域のニーズを満たすために、未だに何も行なっていない」(RUSSIA BEYOND なぜシベリア鉄道を建設したのか より)
と嘆いた。と言います。
これは広大な国内にある豊かに産出される物資が、十分に国内に振り分けられない為の嘆きだと思います。
国内の町と町を路線で結ばなければ流通は活性しないと思います。
アレクサンドル三世帝からシベリア大鉄道を託されたウイッテ伯はこの時、先帝の遺志を微妙に取り違えてしまっています。
ロシアの東西を鉄道で結ぶだけで、途中が外国では自国の経済の活性化は控えめになってしまうと思います。
シベリア鉄道の線路幅は「広軌」の1,520mmです。欧州の線路幅は「標準軌」1,435mmです。これはわざと変えていると聞いた事があります。
極東と欧州をつなぐ為の、シベリア鉄道でなかった証拠だと思います。