ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その015

ロシアの歴史 タイトルロシア

第二章 李鴻章と東支鉄道利権交渉

今回から第二章に突入です。ロシアと極東アジアの出来事の話題になります。

日露戦争期のシベリア鉄道小考(1) より

第一段 馬関条約とロシアの干渉(1)

アレクサンドル三世帝が崩御した1894年、極東の隅っこで清国と日本が戦争を始めました。隣国であるロシアはどのように対応したのでしょうか。

日本と清国の戦い

アレクサンドル三世帝の治世の末期、日本と清国との関係が極度に切迫して、ついに両国の平和が破れ、開戦を見るに至りました。
この時点でロシア帝国の出来ることと言えば、ウラジオストックに駐屯している少数のロシア軍隊の一部を吉林方面に進めて、日清両国の軍事行動が北方に移動してロシアの国境やその権益を脅かすようなことに備えたにすぎませんでした。


この戦いは日本側が優勢のまま進み、遼東半島の占領によって終局しました。
日本は色々と自国の利益を主張し、なかんづく遼東半島の領有はその主たるものでありました。

ロシアは現在の中国でいうと、吉林省、黒竜江省、そしてモンゴル自治区の2省1区で国境を接しています。
また、日本とは地続きの国境はありませんでしたが、海をはさんだ隣国でした。
私は、この戦いの主とするところは、朝鮮王国の清国からの独立であると思っているのですが、ウイッテ伯は領地の拡張が主であると、そのように見えたようです。


古来、日本国の侵略の危機は、えてして朝鮮半島経由で来ることが常でした。
依って、朝鮮半島を日本贔屓にしておくことが、日本の国防になると考えていたのです。
この時の清国は、日本とよろしくやって行こうという気が無かったのです。

極東へのまなざし

この頃のロシアではロバノフ・ロストフスキー候が新たに外務大臣に任命されたばかりでした。
また、シベリア大鉄道はバイカル湖の東側まで工事を完了し、そこで当然起きるべき一つの問題にぶつかるのでした。


鉄道路線をこれから先どちらの方向へ振り向けけるべきかと言う事でした。
ロシアの領内に敷設するとすれば、黒竜江に沿って大迂回をせねばならないのですが、もし他国の領土つまり清国の領土である北満州を貫通して敷設することが出来るとすれば、第一に線路を短縮しうるのみか、将来の運用上非常に便利を得る事になるのでした。


しかし、常時北満州を貫通する鉄道敷設に関して、清国の同意を得られる成算がありませんでした。
依ってこの問題はとかく解決を遷延するほかありませんでした。
シベリア大鉄道を建設して欧露とウラジオストックを連結することは、アレクサンドル三世帝がウイッテ伯に委任した事業でした。この事業の為、研究し他の人以上に知識も得ることが出来ていました。
清国の国情とか清国・朝鮮国・日本などの地理的情勢、またそれら諸国の交互関係とかについて、幾分とも知識を持つ人物など国務に参与する高官たちを見渡してもほとんどいませんでした。
ロバノフ外務大臣の如きも、極東に関しては何ら理解を持っていませんでした。
もし彼に向って奉天・吉林について問うても、彼の知る所はおそらく中学二年生にも劣るとも優る所はないでしょう。
ロバノフ候が大臣に任命されたばかりでまだ事務をとる遑もない間に、日清戦争は終局して、馬関条約が締結されました。

ロバノフ外務大臣の事は〈第十段 外務大臣の交迭〉書きました。
シベリア鉄道はバイカル湖の東側まで工事は完了したとありますが、このバイカル湖の西側と東側を鉄道で結ばれたのは、日露戦争が始まってからです。
バイカル湖の西側はモスクワからオムスクまで、東側もウラジオストックからハバロフスクの途中までしか工事は完了していませんでした。
線路は結ばれていなくても路線として伸びていたと言う事かもしれません。つまり、馬車に乗り換える、バイカル湖を連絡船で渡たる、冬場はバイカル湖の氷上を犬ぞりで渡るとかだと思います。

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