第一章 ニコライ二世帝統治の初期

第十二段 宮殿警備司令官ゲッセ
皇帝およびその一族をお守りする責任者の人事に関して、ウイッテ伯が思う事は何か。皇帝とウイッテ伯の国内社会認識の違いが現れてきました。
司令官の交代
1896年3月、ゲッセ将軍が宮殿警備司令官に任命されました。
先帝アレクサンドル三世の即位時、極短い期間ウォロンツォフ・ダシコフ伯が司令官を勤めていた事がありましたが、程なくしてチェレウィンが司令官を引き継ぎました。
ダシコフ伯は、任を解かれると宮内大臣になり、終いまでアレクサンドル三世帝に仕えました。
ニコライ二世帝は皇太子の時代から通して、宮殿内ではチェレウィン司令官の監視の中で生活していたようなものでした。
ニコライ二世帝はそれを稍々煙たく感じていました。とりわけ優雅で若くドイツ生まれでイギリス宮廷育ち皇后にチェレウィン司令官の放胆さ激しさが御意に召さなかったようです。
ニコライ二世の登位以来、司令官として皇帝に面接していながら、皇后との間には如何なる親密さもありませんでした。
今までこの様なことが無かったでですが、司令官は参内を怠るようになりました。
皇帝が冬宮殿に居る時も、ツァルスコエ・セロで過ごされている時も、司令官は宮殿内に部屋を賜らずに他に宿をとるようになっていました。
司令官と若い二人との間に、徐々に軋轢を生じさせてしまいました。
ですが、皇太后は彼に対してアレクサンドル三世帝統治時代と同様に態度を変えることなく敬愛していました。
チェレウィン司令官と親しい人物にゲッセ将軍がいます。
彼はプレオブラジェンスキー連隊に所属し、連隊長を勤めていました。
結果、チェレウィンはゲッセを頤使する間柄でした。ゲッセはチェレウィンから宮殿警備の要領を学びました。
ゲッセは出世を重ね、大隊長になりました。
そしてその時プレオブラジェンスキー連隊には若きニコライ皇太子の姿がありました。
ゲッセは皇太子に射撃の教授したこともありました。
チェレウィンが死に、その後継者としてゲッセの名が上がるのは当然でした。
プレオブラジェンスキー連隊は、セミョーノフ連隊と並び帝政ロシア軍の近衛兵です。
17世紀末、幼少期のピョートル大帝が住んでいたプレオブラジェンスコエ村と近隣のセミョーノフ村から貴族の子弟の少年を集めて「玩具の兵隊」を組織し、戦争ごっこをしていたのがそもそもの始まりだそうです。
ゲッセ将軍について
ゲッセは几帳面で悪い人ではありませんでした。が、何をやらせても平凡でした。
彼が軍人として栄達したのは、前キエフ軍司令官の愛婿であったからでした。
彼の妻の姉はエリザウェッタ皇后付の女官でした。
彼はユダヤ人でした。彼は見た目はユダヤ人に見えませんでしたが、彼の兄はキエフで知事をしていましたが、ユダヤ人の風貌をしていました。
多くの人が「ユダヤ人の血統は、きっと或る欠陥を持っている。」と考えていましたが、ウイッテ伯はそれは間違っていると思っていました。
ユダヤ人だけが欠陥を持っているわけ手はない。
他の人種もそれだけでなく、純ロシア人でさえ欠陥のある人はいるとウイッテ伯は思うのでした。
ツェレウィンに代わってゲッセが司令官に任命された時、皇帝が「自分の身辺には別に何らの護衛も要らないからゲッセを宮殿警備司令官に任命した。」と言ったのは特徴的でした。
19世紀のロシア国内ではユダヤ人迫害が多くありました。
時には国政として迫害していました。
「自分の身辺に護衛はいらない」とは確かに特徴的です。
あなたの父上は幾度と暗殺されかかってますよ。
あなたのおじいさまはどのようにして死にましたか。
ウイッテ伯はそう聞き返したかったのかもしれません。
この回想録が書かれたであろう1910年代はさらにテロリストによる要人暗殺が増えていました。
ウイッテ伯は普段から陛下の周辺警備に気を掛けるべきだったと思ったのだと思います。
皇后が気に入ってないからと言って司令官を遠ざけるような真似はしてはいけません。
顔見知りだからと言って司令官に任命してはいけません。
周辺警備の弱体化がテロリストの活動を活性化させてしまったのではないでしょうか。
テロ行為を未然に防ぎ、犯人を生きたまま捕らえ、裁判で罪状を世間に示す。
また、革命家、活動家の言い分を確認し、正当性があるのであれば改革をする。
反動行政を行っていては、テロ行為は終わらないでしょう。
アレクサンドル二世は改革を進めようとしていました。にもかかわらず、殺害されました。
革命家や活動家の行動理由って実は、生活の改善や行政の改革ではなく、施政者の乗っ取りでしかないのではないかな。