ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その013

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第一章 ニコライ二世帝統治の初期

イワン・ゴレムイキン on wiki

第十一段 ゴレムイキンを内相に

ドゥルノウォは更迭され、新たにゴレムイキンが内務大臣になりました。

ドゥルノウォ、更迭の訳

1895年4月2日、ボベドノスツェフの推薦でゴレムイキンが内務次官となりました。
ゴレムイキンは、前任者のドゥルノヴォが後継者として推薦した分けてはありませんでした。
ドゥルノウォは皇太后あての手紙を勝手に開封したと言う事で彼女の怒りを買ってしましました。
ウイッテ伯もたびたび開封されて実に不快な思いをしたそうです。
ドゥルノウォは皇帝の信任を失い更迭されてしまいました。
ゴレムイキンの大臣内定は、ニコライ二世帝が先帝の遺志を無視したもだそうです。


ドゥルノウォが退職すると、誰を後釜に据えるかが問題になりました。
ウイッテ伯は陛下に誰を指名するのか伺いました。
ウイッテ伯は自分が候補者を指名するつもりは無く、陛下の指名した人物についてその当否を論ずるだけにするつもりでした。
この時は、陛下はブレヴェとシュピャギンの二人が推挙されている事をウイッテ伯に告げました。
ウイッテ伯はこの二人の事をよく知っていました。

コンスタンチン・ペトローヴィッチ・ポベドノスツェフ〈第二段 旧臣等の新帝ニコライ二世評〉の所で出てきました。
ニコライ二世帝の傅育(ふいく)だった人です。内務次官とありますが、内務大臣の事です。
ポロフツェフは帝政ロシア内で保守主義思想家の代表格となされる人物で、ロシア正教の保護者的立場の人でもありました。
よって、大臣任命の影響力も十分にあったのでしょう。
イワン・ローギノヴィッチ・ゴレムイキンは、超保守主義者で専制君主国家の家臣としては、非常に力強い人物であったと思います。
農務問題の専門家でもあり、後の農民達の国家への不満は、この人が作ったのではないでしょうか。
イワン・ニコラエヴィッチ・ドゥルノヴォは、〈第一段 アレクサンドル三世の死〉で大葬の時、内務大臣の身でありながら、故帝の葬送される道筋で民衆の交通整理をしていた人です。
非常にコミュニケーション能力がある人で、庭内接待の上手なひとっだ様です。
ただし、政治能力は控えめでした。

アレクサンドル三世はゴレムイキンを遠ざけていたのでしょうか。今の所、私は判りません。

ブレヴェ

ヴャチェスラフ・プレーヴェ on wiki

ブレヴェが裁判所の検事時代、彼はかなりの自由思想家でした。
この思想の持主であった結果、大審院長であるロリス・メリコフ伯がブレヴェを警保局長に抜擢されました。
当時ブレヴェはロリス伯の政策に共鳴していました。
やがてロリス伯がイグナチェフ伯に代わると、ブレヴェはイグナチェフ伯の股肱となりました。
ロリス伯は西欧的な立憲主義者、に対してイグナチェフ伯は実質的な保守主義者でした。
内務大臣が、イグナチェフ伯から専制主義の完全なる代表者とも思えるトルストイ伯に代わりました。このころ、ブレヴェはトルストイ伯の最大の崇拝者になっていました。
ウイッテ伯は、ブレヴェは天性の下劣漢であると評しています。

裁判所の検事時代って何だろう。検事でなく、判事の事かな。
アレクサンドル二世治世の1864年、行政と司法は分離・独立しました。
この時代は帝国内で民主主義の方向に進んでいました。ブレヴェはその時の影響があるのかもしません。
ミハイル・タリエロヴィッチ・ロリス=メリコフ伯爵はアレクサンドル二世帝治世の時、内務大臣を務めていたことがあります。
彼は貴族が仕切っている政治体制を徐々に一般国民に開放し、立憲主義を進めていきました。が、テロリストによってアレクサンドル二世帝と共に殺害されてしまいます。
次アレクサンドル三世帝は専制政治こそ安定した国家が築けると民主制を遠ざけてしまいました。
ニコライ・パヴロヴィッチ・イグナチェフ伯はアレクサンドル三世治世時の内務大臣です。反動的・保守的政策を進めたと言われています。
ドミトリー・アンドレーエヴィッチ・トルストイ伯爵は、地方分権の否定し、行政権・司法権を内務省管轄に集権化しました。また、新聞・出版等自由を大きく制限しました。
ウイッテ伯は、ブレヴェには自分の主義・主張が無く、その時その時の勢いのある主義を追いかけているだけの様に見えていたようです。
人間誰でも、主義・主張が変わる事は有ると思いますが、ブレヴェはどうだったのでしょか。

シュピャギン

シュピャギンは、遥かに教養がない、遥かに無能、法科の学校を出ているのに法律知識が乏しい、地方政治には明るい、正直者ではある、世間を見る視野が狭い、純貴族主義、専制主義者であり、ブレヴェより経験も才能も劣るとウイッテ伯は思っています。
ウイッテ伯は二人の特徴を陛下へ述べ終えた後、御前を退いて長期の出張へ出てしまいました。

シュピャギンがどういう人かほかの資料を見つけることができませんでした。

ゴレムイキン

一か月半~二か月ほど長期出張はかかり、ウイッテ伯は帰ってきなした。内務大臣の内定はまだ決まっていませんでした。
ウイッテ伯は大蔵大臣として、内務大臣がいないことを極度に不便に感じ、一時的にも間に合わせにゴレムイキンに内務大臣に就いてもらっていました。
出張から帰ってきて最初の謁見で、内務大臣を誰にするのか伺いました。また、内務大臣が不在であった時、非常に不便であった事を伝えました。
陛下は、ボベドノスツェフと相談した結果、ゴレムイキンにする以外にないと思っていました。
陛下はウイッテ伯にゴレムイキンについて、考えを聞きました。
ウイッテ伯はゴレムイキンについて明確な一つも言えない。ただ、概して良い印象を持っていると答えました。
ウイッテ伯がお暇しようとした時、タフネが入ってきました。二人は、宮殿からペテルブルグに帰る途中、こう言いました。
「あなたがお帰りになったんで、僕はどんなに嬉しいか知れなせんよ。陛下は誰を任命するか何時までもい決めなさらんのでしてね。ところが今日、私がゴレムイキンに辞令を手交することになったんですよ。」
ペテルブルグに着き、まっすぐ内務省庁舎へ馬車を駆けてゴレムイキンにに逢って言葉を掛けました。
「陛下八もともと、君を内務大臣になさる御積りだったんだよ。僕にはよくわかっている。」
この知らせで、彼はすっかり満足しました。

出来事の日付の確認をしておこうと思います。
1月26日;ギールス外相死亡
1月27日ごろ;シシュキン臨時外相に任命(大臣職不安視される)(想像)
1月27日~2月2日ごろ;ドゥルノヴォ内相更迭(想像)
2月3日~3月21日ごろ;ロバノフ外相候補、オーストリアから帰国
2月15日または22日;ウイッテ伯長期出張(想像)
3月3日~3月9日ごろ;ウイッテ伯臨時内相の依頼(想像)
3月10日;ロバノフ外相内定
4月6日~11日;ウイッテ伯出張から帰る
4月12日;ウイッテ伯陛下へ謁見(想像)
4月14日;ゴレムイキン内相内定
こんな感じではないだろうか。3月上旬に内相が不在の為仕事が滞ってると苦情が陛下に伝えて、大臣がパタパタと内定したのではないだろうか。

大臣の実情

内務省は3つの部署が合併して大きくなっていました。
内務大臣の現職以外に憲兵司令官を兼ねており、俸給とか官舎や燃料費のほかに特別経費が年額5万ルーブル用意されていました。
経費の管理は内務大臣がおっこなっており、外部からはまず確認できませんでした。
内務大臣は、経費を不正に私用や交際費として使用するのが常でした。
「独立の地位を得たことは非常に喜ばしい。自分が今はもう一時的の心得でもなく一時だけのカリフでもないことはうれしい。
自分がまづ先に手を付けたいのはあの内相が受けている5万ルーブルを処置である。あれを撤去する。そして警察自身がそれを機密費に用いるようにする。」
そう語っていたのですが、次第にゴレムイキンも経費を私消し始めました。
結局ストルイピンと同じになってしまいました。ただちょっと違うところがあるとしたら、ストルイピンは経費を10万ルーブルほどに達していたことでした。
ゴレムイキンは内務大臣になる前は自由主義に傾いていましたが、内定するや否や上司の思惑をはばかり、自分の名声を慮ってかなりの反動政策を執った。

結局この腐敗体質が貴族だけが太り、国民だけが痩せていくのでしょう。

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