第一章 ニコライ二世帝統治の初期
第十段 外務大臣の交迭
交通大臣の交代劇が終わったの思ったら、外務大臣のギルスが死去。またまた、すんなりと人事は決まりませんでした。

シシュキンを大臣にするぞ!いや、ロバノフを大臣にする!
外務大臣のギルスが死亡し、新大臣にギルスの友人であったシシュキンが任命されました。シシュキンは、非常に尊敬すべき立派な人物でした。
ですが、外相としての見込みが見えず、風貌もさっぱりで威厳がなく、到底大臣職が務まらないと周囲から思われていました。
数週間後には、新たに駐墺大使であるロバノフ・ロストフスキーが外務大臣に任命されました。
それは、世間を驚嘆させた任命でした。
ウイッテ伯は、ニコライ二世帝が全然事情を知らないためであり、文武の最高幹部間にどんなからくりがあるのか全然知理解していないために、ロバノフを任命したのだろうと思いました。
ロバノフが大臣として適・不適の評価を受け以前に、大臣選定に名前が上げる事自体がよくないとウイッテ伯は思いました。
なぜなあらば、先帝アレクサンドル三世がロバノフの事を人前でしばしば公然と「軽率な男だ」と言っていたからでした。
外務大臣ニコライ・カルロヴィッチ・ギールスは1895年1月26日に死去します。
その後、ギールスの友人のシジュキンが大臣となるのでしたが、どうも評判が良くなく、3月10日になってアレクセイ・ボリソヴィッチ・ロバノフ・ロストフスキー侯爵が新たに外務大臣として任命されました。
ウイッテ伯は、シジュキンは「非常に尊敬すべき立派な人物」と評価しているのですが、当時のロシア人、いやウイッテ伯はどのような状態だと尊敬できたり、立派だと思えるのかがわかりません。ロシア人の人物評価基準を知りたいところです。
ウイティ伯の人物評価は先帝アレクサンドル三世の人物評価にシンクロさせています。当然忠誠を誓っているのならばそれで良いと思います。
ですが、すでに先帝は亡くなり新たに皇帝がいるのならば、新帝に忠誠を誓い思考をシンクロさせた方が良いのだと思います。
大概それができないから、旧臣と新帝の間で軋轢が生まれるのでしょう。
ロバノフ侯爵が大臣になった理由
当時のニコライ二世帝は、先帝の肖像の前に平伏して、彼の遺志を文字通り履行することに汲々としていました。
彼は万事に暗く、したがって先帝の意見も、色々な人物は政情に対する先帝の評価も、多くの場合は判らない状態でした。
それを知る唯一の情報源は彼の母親、皇太后でした。
ウイッテ伯はロバノフ侯爵は風采はまこと堂々とした人物であると評価しています。
ですが、それは個人的な問題でしかなく、彼が外務大臣に抜擢されたのは、失敗であると思いました。
ロバノフ侯爵は非常に教養が有り、世事に明るく、語学に長じており筆もよく立ち、外交官生活の監修も熟知していました。
また、すこぶる機智にとんだ話し上手でありました。
ロバノフ侯爵を大臣に推薦したのは、ニコライ二世帝の義弟アレクサンドル・ミハイロヴィチ太公の父親である、参議院議長ミハイル・ニコラエヴィチ太公でした。
ミハイル太公はニコライ二世帝の初期においてある方面で陛下の決定に対して影響力がありました。
彼は皇族中で最年長者でした。
ロバノフ侯爵には非常に親しい友人でポロフツェフという人物がいました。
ポロフツェフは職業がらミハイル太公と接することが多かったそうで、その時にポロフツェフがミハイル太公に外交関係に見識が広いロバノフ侯爵を大臣職に推薦したようでした。
ニコライ二世帝は先帝のロバノフ侯爵の評価を知らずに侯爵を大臣に任命しました。
ですが、すぐに辞令は下りず、2~3週間かかったそうです。
多分、先帝のロバノフ伯爵の扱いを知っている旧臣の誰かが反対をしていたのかもしてません。
ニコライ二世帝には、忠誠を誓ってくれる側近がいなかったのですね。
陛下の為に手足となって動いてくれる家臣がいないのはかなりきついように思えます。
ウイッテ伯は、シシャキンは風采がさっぱりで威厳が無く、大臣は無理であると思う傍ら、ロバノフ侯爵は、風采まこと堂々としてるが、そんなことは個人的は問題であり、彼の大臣への抜擢は失敗であると思っています。なんだか評価がぶれていませんかこれは。
ロバノフ侯爵は、外交畑の仕事にうってつけの人物の様に思えます。
ウイッテ伯は、先帝アレクサンドル三世には忠誠を誓ていたと思いますが、新帝ニコライ二世には忠誠心を見せていないようです。いずれニコライ二世帝に見抜かれてしまうと思います。