第一章 ニコライ二世帝統治の初期

第八段 ワルソウ総督の更迭
ワルシャワ提督のグルコ将軍が更迭されました。どのような問題があったのでしょうか。
提督職は世襲できるのだろうか
12月13日、突然シュワロフ伯がグルコ将軍からワルソウ総督に任命されました。なぜグルコ将軍が更迭されたかというと。
グルコ将軍が自分の息子をワルソウ総督の地位を引き継ぎさせようとしたからです。当時、彼の息子は総督府で内務次官として勤めていました。ですが、彼の息子は金銭問題を起こしており、評判がよくありませんでした。
内務大臣のドゥルノヴォは、承認しませんでした。
グルコ将軍はペテルブルグへやって来てニコライ二世帝に排謁し、かなり激烈な手詰の談判をしました。自分の息子を総督にしてくれるか、乃至は自分が退職しようか。という事でした。
陛下は、退職を承認しました。
グルコ将軍は優れた軍人であり、国家的人物でした。ですが政治の舞台から降りて、田舎へ帰り隠遁しました。
ワルソウっていうのはワルシャワの事ですね。帝政ロシアで、地方行政の組織は二人の長官がいたと聞いたっことがあります。一人は文官出身で市長とか県知事とかになって、もう一人が武官出身で警察長官とか総督たかの役職に就くらしいです。
大概、武官の地位の方が高かったそうなので、ワルシャワ総督と言うとポーランド王の次ぐらいの地位になのではないでしょうか。
その地位を世襲させようとして断られ、そのまま更迭されたか、辞職したかしまったのですね。
個人的には世襲など許さない方がよいと思います。世襲が許されるのは、国のトップだけで十分です。他は自治等は実力主義で決めて、権威者はその実力にかなわないと分かった時に王位を譲ればよいと思います。権威者が増えればいさかいが増えるだけです。
先帝とニコライ二世帝は違うところ
1894年12月13日、即位から2か月後の出来事です。陛下がグルコの解職を承認したのは、あまりにも強烈に詰め寄ったからでした。その我の強さを陛下は嫌ったのでした。
グルコのように問題解決をごり押しする態度は、陛下ぼ性格を無視し、相手がだれでも、皇帝に対して取って良い態度ではないでしょう。
ウイッテ伯はこの我を強く通すことについては、自分自身も陛下に行っていたする場合があって、自己非難をしていました。ですが先帝アレクサンドル三世の代から仕えてきているので、そのような事があっても仕方がないと思うのでした。
先帝はどんな風に意見を表現しようと、どんなに激烈は言葉を使おうと、少しも意に介さなかったようです。反対に彼は、強い確信的な言葉を非常に尊重したそうです。一口に言えば、アレクサンドル三世とニコライ二世帝とは、性格が全く変わっているのだとウイッテ伯は思ったそうです。
ニコライ二世は専制者として、権利を維持したのだと思います。つまり要職等の任命権は皇帝にあり、ごり押しされて要職を与えるわけにはいかない、ごり押しされて相手に利権を与えない、と言う事です。
ただ、〈第四段 リバウ軍港新設問題〉の時のように年上の身内には厳格に対応できないのかもしれません。多分、皇太后に対しても、逆らえないかもしてません。
アレクサンドル三世帝はどうだったのでしょうか。アレクサンドル3世が帝位についた後、叔父のニコライ・ニコラエヴィチ太公の女性問題や、軍事費用不正要求問題を非難し要職を罷免しています。身内にも厳格に対応していたと思います。