ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その008

ロシアの歴史 タイトルロシア

第一章 ニコライ二世帝統治の初期

第六段 ニコライ二世帝の性格

アレクサンドル・ミハイロヴィチ太公 on wiki

アレクサンドル三世に見出され大臣となったウイッテ伯、いわば旧臣の目からは新帝ニコライ二世帝の性格をどのように見ていたのだろうか。

ニコライ二世帝とワンノフスキー

ウイッテ伯が、ニコライ二世帝が即位したての頃、陸軍大臣であったワンノフスキーから聞いた話によると。
ワンノフスキーは、局外者たる太公達があまりに陛下を操縦するのを見かねて、或る日陛下に奏上しました。
「陛下、どうか候地法をお許し遊ばさぬように。それは、先帝陛下が折角打破されたものでございますから。」
陛下は訊きかえしました。
「君は一体どういう候地法のことをいうのか?」
「つまり、古代ロシアの候地法のことでございます。ロシアがモスクワ帝国に統一される前、各太公領が割譲していた当時のような候地組織のことでございます。」
「そう、僕は、ピョトル・セメノウィチや彼等一派の翼を剪るであろう。」
と答えたそうです。

この会話から、私はニコライ二世帝の性格は読み取れません。
ちょっと登場人物と会話に意味について考えてみます。
ワンノフスキーとは、ピョートル・ヴァンノフスキー中将の事と思います。
ピョトル・セメノウィチが誰なのか良くわかりませんでした。とあるロシアの軍事サイトにこのような文章がありました。
〈それから貴族の民間人との将校の決闘は許された。 同時代の人々は、戦争大臣は1894からの決闘の彼の順序の重要性を高く評価したと述べました。 同時に、ピョートル・セメノビッチは常に彼に「ロシア軍はその制服の名誉を回復する義務がある」と主張した。〉
多分、機械翻訳をしてちょっと意訳修正をしているのだと思います。ここに出てくるピョートル・セメノビッチは、戦争大臣であると読み取れます。
実際ロシア帝国には戦争大臣というのはないので、陸軍大臣の事と思います。で、ロシア帝国の陸軍大臣でピョートルという名前の人は、ピョートル・ヴァンノフスキー中将しかいません。
つまり、ワンノフスキー氏のフルネームはピョートル・セメノビッチ・ヴァンノフスキーなのではないでしょうか。
つまりこう言う会話だったのでは。
「陛下、ピョートル・セメノビッチ・ヴァンノフスキー中将として申し上げます。局外者である太公達に政治について容喙させていけません。」
「何言ってんの。君こそロマノフ家の事に口をはさんではいけないよ。そうでないと、部外者のピョートル・セメノビッチ・ヴァンノフスキーなんて剪ってすてるよ。」
ニコライ二世は、閥族主義者であったと?。・・・性格のわかる一場面ではなく、どういう主義の持ち主だったかわかる場面だったのではないでしょうか。

ニコライ二世とウイッテ伯の主義

太公達は終始、皇帝の上に忌まわしい勢力を揮っていました。特に皇帝の義兄弟のアレクサンドル・ミハイロヴィチ太公はその重なるもので、おそらくこの太公さえいなければ極東で受けた一切の不幸を知らずに済んだであろうと、ウイッテ伯は思ったそうです。
ニコライ二世が帝位に登った当時、彼はロシアを形成するすべての民族、すべての臣民に心底から幸福と平和な生活が与えられることを願いました。皇帝には慈悲の後光がさしており、その心は疑いもなく極めて善良でした。ウイッテ伯は、そう感じたようです。
最近(多分1910年ごろ)、彼の性格の内側に別の性格が現れ始めたようです。それは、皇帝が多くの経験された結果なのですが、そのためにまた新たな過ちを犯してしまったようです。それは局外者を信頼してしまったことだとウイッテ伯は考えています。

アレクサンドル・ミハイロヴィチ太公は、ニコライ二世の妹クセニアと結婚したことで義弟となりました。1895年ごろから太平洋艦隊の強化に乗りだしていました。
ウイッテ伯は、この太平洋艦隊強化がニコライ二世帝が極東方面に進出する気になってしまい、日露戦争の原因の一つと思っているようです。
私は、ウイッテ伯が帝国の政治は皇帝と実力がゆえに選定された文官・大臣が行うべきであり、権威者ではあるが政治の素人の太公は、行政に容喙しない方がよい。と考えているのだと思います。
ニコライ二世帝の閥族主義とは真逆であったのではないでしょうか。
あとこの段で分かったことは、ニコライ二世は冠婚式を冬宮殿で行い、その後ハネムーン時をツァールスコエ・セローの離宮(エカテリーナ宮殿?)で過ごしていました。日露戦争時は冬宮で政務を行っていました。敗戦後はまたツァールスコエ・セローに引きこもってしまいました。

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