ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その006

ロシアの歴史 タイトルロシア

第一章 ニコライ二世帝統治の初期

第四段 リバウ軍港新設問題(2)

当時ロシアでは、海軍拠港をどこにするか。ムルマン案とリバウ案の2案ありました。
リバウに軍港を建設する事になるのですが、どのようないきさつで決まったのでしょうか。

リバウに海軍拠点を作る その名はアレクサンドル三世港

ムルマン軍港計画延期から2~3か月後ウイッテ伯は官報の紙面にニコライ二世の勅令が出ているのを発見しました。
「余はリバウ港をわが海軍拠点地となすの要を認め、それに対する一切の計画の現実を望む。その港名をアレクサンドル三世港と名付け、もって先帝の遺志に依るの意を表す。」
ウイッテ伯は、ニコライ二世も先帝アレクサンドル三世もリバウ海軍拠点計画に反対であることを知っていたので非常に驚いたのでした。

当時ウイッテ伯は大蔵大臣、建設費のこともあるので一言連絡があっても良いように思います。「計画の現実を望む」ならまだ決定ではないと考えて良いのでしょうか。しかし、専制者の希望を無視する事はやっぱりできないのでしょうね。

この人のせいだ

勅令発布から数か月後、ウイッテ伯はコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ太公と非常に親しくしているカジーという男からリバウ港の件について話を聞いた。
「リバウ港に関する勅令発布後、ニコライ二世陛下がコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ太公の所へやってきてこんな愚痴をこぼした。
提督アレクセイ太公が無理矢理あんな勅令に著名させた。あれは僕の意見にも先帝アレクサンドル三世の意見にも全く反するものだ。でも僕には著名を拒絶することができなかった。
というのは、アレクセイ太公の態度が、もしこれが聴かれない場合には自分は屈辱されたものとして、断然辞職すると涙を流して愁訴されたからだ。」
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ太公は高貴な人物ではあるが、国務を処理する能力はたいして高くありませんでした。太公の周辺には太公の言動に影響を与える人物がいました。
海軍大臣ニコライ・マトウェヴィチ・チハチェフでした。チハチェフ海軍大臣にはオブルチェフ大佐という秘書がついてました。オブルチェフ大佐は優れた軍事理論家でした。そして熱心なリバウ軍港建設論者でした。チハチェフ海軍大臣もまた、オブルチェフ大佐の意見の請け売りをしているだけでした。

当時、アレクセイ太公がリバウ軍港の件で影響力が大きかったことはこれで証明されました。涙を流しながら聴き入れてくれないなら辞めてやるとは、まさに泣き脅しするとは思いませんでした。
今回の一番のしくじりはやはりニコライ二世でしょう。母親がひいきにしている叔父さんの泣き脅しでも情に流されずに突っぱねるべきでした。「大切なことだから」とか「お金がかかるっことだから」とか「ほかの人の意見も聞いてみたい」とか理由をつけてその場を抜けだしたかった。その後、ムルマン派の人を集めて有識者会議でも開いてムルマンに決めてしまえばよかった。太公と皇太后の恨みは有識者会議に引き取ってもらえばよかったと思います。

ウイッテ伯、後悔する

ウイッテ伯はなぜあの時、ムルマン築港の命令発布を皇帝につよく勧めなかったかことが非常に残念な気持ちになりました。
そして一つの教訓をえました。
「相手の迷っている時は殊にそうだが、機会を掴むことが最も大切である。一旦機会を逸したが最後、肝心なことまで逸してしまうものだ。」
と言う事でした。
もしあの時ニコライ二世帝がムルマンに海軍根拠をおく勅令を発布したら、きっと、彼自身それに熱心になったであろう。そうすれば恐らくロシアは極東の大海洋へ出ようなどとは考えなかったであろう。従ってあの不幸な旅順港の奪取もなかったであろう。さらにそれから、あの対馬大海戦へまでの引きづられて行きはしなかったであろう。

ウイッテ伯の仮定、ムルマンに海軍根拠を置く勅令を発していれば、日露戦争は起きていなかった。
もしそうだったらレーニンによる革命もなかったかもしてない。軍事力は強化され、鉄道によって流通がよくなって国内も潤ったかもしれない。永久帝国の礎が築けたかもしれない。

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