ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その005

ロシアの歴史 タイトルロシア

第一章 ニコライ二世帝統治の初期

第四段 リバウ軍港新設問題(1)

映画「二百三高地」、ドラマ「坂の上の雲」など日露戦争を扱った物語に必ず名前を聞くリバウ港。リバウ港はニコライ二世の世代に軍港として開発された。

ウイッテ伯、最初の執奏

先帝アレクサンドル三世の葬儀から数日たってウイッテ伯は、新帝ニコライ二世に大臣として最初の執奏をしました。陛下は、先帝を深く愛していたのでその崩御を非常に悲しんでいました。その上、帝位につく準備が少しもなかったのでかなり狼狽していました。陛下は、ウイッテ伯が先帝から格別に寵遇されていたことを知っていました。特に親しげに引見し、次のように尋ねました。
「ムルマン旅行に関する君の報告書はどこに在るかね?僕にそれを見せてくれまいか」
「その報告書は、まだ先帝がペロウジェスキー宮殿にいたころ僕に読み聞かせたことがある。そして、先帝はその報告書に幾らか手を入れていた筈だ。」
ウイッテ伯はその報告書が自分の手に返ってないことを改めて奏上しました。陛下はきっと捜し出すからと言いました。

執奏とは、取り次て奏上すること。大臣から陛下への業務報告です。
ニコライ二世帝へのウイッテ伯の最初の執奏は日付的には、いつでしょうか。ネットで調べても判明しなかったので想像です。先帝の葬儀が11月18日、その数日後でウイッテ伯が執奏するのは毎金曜日だそうです。そうすると1894年の11月18日が日曜日なので11月23日である可能性が高いと思います。ニコライ二世は11月26日に結婚式を執り行っています。つまり結婚式、3日前です。浮かれた気分でいたために特に親し気に引見したのかもしれません。
ペロウジェスキー宮殿とは、モスクワのペトロフスキー宮殿 の事と思います。ペトロフスキー宮殿は現在も存在しています。2019年にこの宮殿で「日ロ知事会議」を開催してます。日本・ロシアの知事が集まって文化・経済等、話し合いを行ったのですね。今のご時世ではできないだろうと思うと悲しいですね。
なお、この宮殿は現在はブティックホテルとなっており、誰でも宿泊することができるそうです。

ムルマン旅行報告書の意味は

次の金曜日、ウイッテ伯が執奏に訪れると、陛下はムルマン旅行の報告書が見つかったことを伝えた。そして報告書を完成させるよう話した。これは、エカテリンスカヤ湾のムルマンにロシア帝国の海軍根拠地を築くためのものでした。
「リバウ港の甚大な建設計画などは実現させる必要はない。なぜなら、リバウ港はロシアに何の利益も齎さなぬ港で、あれではいざという場合に忽ちわが艦隊は封鎖されてしまう。」と陛下は話されなした。
当時、ロシア国内では軍港について二様の意見がありました。一つはリバウ軍港の建設がロシアにとって無益だと言って反対するもの。他の一つはリバウにロシア海軍の重要な根拠地を置くために壮大な軍港を築くというものでした。ウイッテ伯は前者でした。そして、ニコライ二世帝もそうでした。

ムルマンスク(Murmansk)

ムルマン(現在はムルマンスク)は、サンクトベテルブルグの北に有り北極海に面したところです。ですが、暖流が流れ込んでいるので冬でも海が氷で覆われない場所でした。現在、ムルマンスクは大きな港町です。また、ソ連時代も軍港として使われていました。

ウイッテ伯その計画に反対する

ニコライ二世帝は、ムルマンに海軍根拠地として軍港を築き、ムルマンとペテルブルグの間を鉄道で結ぶ計画を打ち出そうとしました。ウイッテ伯もこの計画自体には賛成でした。
ですが、ウイッテ伯はこの計画を急いで行わないよう勧めました。というのも、先帝崩御後一週間とたたないうちにこの計画を進めるのは、皇族一門の間に紛擾を来す恐れがあると考えたからです。まず、海軍提督アレクセイ・アレクサンドロウィチ太公が憤然として反対するだろう。太公は熱心なリバウ港建設論者でした。また、太公はマリア・フョードロヴナ皇太后の大のお気に入りであり、アレクサンドル三世崩御後の今日では一層皇太后の心を掴んでいるように思えたためです。太公は先帝の兄弟であり、唯一未婚者でした。皇太后としては、かわいい(?)義理の弟でありました。先帝アレクサンドル三世崩御後第一週日に家庭的紛糾を来すことをウイッテ伯は確信していました。
「ニコライ二世はまだ帝位についたばかりで、この問題を研究する時間はなかった。誰かに巧くかつがれたのだ。」このような意味の事を噂されるかもしれないとウイッテ伯は陛下に言いました。
「そんなことはない。僕には、先帝が君のムルマン旅行報告書の中へ記入した〈決済〉があるのだから・・・。」陛下はこう言われました。が、最後はウイッテ伯の提案を受け入れてこの問題はしばらく時期を待つことにしました。

私は何か勘違いをしていたようです。てっきりウイッテ伯の執奏はアレクサンドル三世帝の葬儀後だと思っていました。が、もっと早い時期かもしれません。考えてみれば、アレクサンドル三世がクリミヤのリヴァディア宮殿で養成しているのならば、ウイッテ伯が政務の為そちらに出向くことも普通にありうることです。11月1日木曜日にアレクサンドル三世が崩御、翌日11月2日金曜日に新帝ニコライ二世に執奏、これが1回目。2回目の執奏が11月9日金曜日ならば、崩御後第一周日の家庭的紛糾を気にかけたとすればつじつまが合います。

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