ウイッテ伯回想記「日露戦争と露西亜革命」その002

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第一章 ニコライ二世帝統治の初期

アレクサンドル三世   on wiki
アレクサンドル三世

第一段 アレクサンドル三世の死

「アレクサンドル三世帝は死んだ。」この回想記は皇帝の死からはじまります。
ウイッテ伯はアレクサンドル三世によって能力を見出され、出世した人でした。

アレクサンドル三世

アレクサンドル三世は、ニコライ二世の父親です。1881年に即位して、1894年崩御。在位期間は13年間と意外とみじかいです。
11月1日に崩御し、遺体は11月6日にヤルタからペテルブルグ(現在のサンクトペテルブルク)へ向けて出発。
途中モスクワのウスペンスキー大教会堂に一日間だけ奉安されました。
11月18日ペテルブルグへ到着、ペトロパヴロフスキー大会堂に安置されます。

アレクサンドル三世帝の死因は腎不全のようです。1888年、皇帝が乗った御召列車が脱線事故に巻き込まれました。崩れ落ちる列車の屋根から子供たちを守るため、覆い被さり車外に逃がしたそうです。この時に負った怪我が原因で腎不全を発症するようになってしまいました。遺体の移動には、主に汽車を利用していたようです。
ウスペンスキー大教会堂は現在、生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう)とかウスペンスキー大聖堂、またはウスペンスキー寺院などと呼ばれており、正教会の寺院です。カトリック教会での、聖母被昇天大聖堂です。
ペトロパヴロフスキー大会堂は現在、首座使徒ペトルパウェル大聖堂とかペトロパヴロフスキ-大聖堂と呼ばれています。

ウイッテ伯、霊柩列車を出迎える

ペテルブルグのニコラエフスキー停車場でウイッテ伯(1894年当時彼は大蔵大臣)は、各大臣と高官たちと先帝の遺骸を出迎えた。霊柩列車からは、うら若き新皇帝ニコライ二世と二人のブロンド髪の貴婦人が降り立った。

現在、ニコラエフスキー停車場と言う名の駅はサンクトベテルブルグにはありません。モスクワからの路線なら、たぶんモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道のモスコーフスキー駅だと思います。

二人の貴婦人

この貴婦人、一人は新たに皇后となるアレクサンドラ・フョードロヴナ姫(ドイツのダルムシュタッド家の公女、当時22歳)とアレクサンドラ・オブ・デンマーク王妃(ニコライ二世の母親マリアの姉でイギリス・エドワード七世の妃、当時49歳)だった。ウイッテ伯はこの時初めてこの二人の顔を見たようである。彼は、王妃の方が若く美しいように見えたそうである。

アレクサンドラ・フョードロヴナ
アレクサンドラ・フョードロヴナ 1890年ごろ on wiki
アレクサンドラ・オブ・デンマーク 1889年ごろ on wiki

霊柩の葬送

故帝の霊柩は、各大臣が二頭馬車で先払し,僧侶や賛美歌隊が続いて通っていきました。臣民でいっぱいのニコラエフスキー停車場を出て、ネフスキー大通りを抜けリテイヌ橋を渡り、ペトロパヴロフスキー大教会堂へ葬送されました。
霊柩がネフスキー大通りにかかった時、ある騎兵大尉の掛け声が聞こえました。
「頭ー右!歓迎、注目。」
自分の隊に先帝の遺骸を歓迎せよと号令をかけたのは、後の内務大臣となるトレポフという男でした。
リテイヌ橋付近で、警官の世話を焼いたりこまごまと民衆交通整理を行っているっ大臣が目に着きました。当時内務大臣であったイワン・ニコラエウィチ・ドゥルノヴォでした。大臣が指揮するべき相手は民衆や警官ではなく、警視総監や警察の長官であろうとウイッテ伯は感じたようです。
これ等のことを目撃してウイッテ伯は、誰もが尊敬していた皇帝の死を深く哀悼の意を表している場と感情に対して不調和であり、その行動は不敬であると思った。

「先払い」とは「、貴人が通行するとき、前方の通行人を追い払うこと。また、その人。さきおい。前駆。」だそうです〔by goo辞典〕。代金の支払い方以外の意味もあるのですね。
トレポフとは後に政治家として政策の違いから対立していきます。この時の事が心の中に刻まれていたのかもしれません。
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