第一章 ニコライ二世帝統治の初期

第一段 アレクサンドル三世の死
「アレクサンドル三世帝は死んだ。」この回想記は皇帝の死からはじまります。
ウイッテ伯はアレクサンドル三世によって能力を見出され、出世した人でした。
アレクサンドル三世
アレクサンドル三世は、ニコライ二世の父親です。1881年に即位して、1894年崩御。在位期間は13年間と意外とみじかいです。
11月1日に崩御し、遺体は11月6日にヤルタからペテルブルグ(現在のサンクトペテルブルク)へ向けて出発。
途中モスクワのウスペンスキー大教会堂に一日間だけ奉安されました。
11月18日ペテルブルグへ到着、ペトロパヴロフスキー大会堂に安置されます。
ウイッテ伯、霊柩列車を出迎える
ペテルブルグのニコラエフスキー停車場でウイッテ伯(1894年当時彼は大蔵大臣)は、各大臣と高官たちと先帝の遺骸を出迎えた。霊柩列車からは、うら若き新皇帝ニコライ二世と二人のブロンド髪の貴婦人が降り立った。
二人の貴婦人
この貴婦人、一人は新たに皇后となるアレクサンドラ・フョードロヴナ姫(ドイツのダルムシュタッド家の公女、当時22歳)とアレクサンドラ・オブ・デンマーク王妃(ニコライ二世の母親マリアの姉でイギリス・エドワード七世の妃、当時49歳)だった。ウイッテ伯はこの時初めてこの二人の顔を見たようである。彼は、王妃の方が若く美しいように見えたそうである。


霊柩の葬送
故帝の霊柩は、各大臣が二頭馬車で先払し,僧侶や賛美歌隊が続いて通っていきました。臣民でいっぱいのニコラエフスキー停車場を出て、ネフスキー大通りを抜けリテイヌ橋を渡り、ペトロパヴロフスキー大教会堂へ葬送されました。
霊柩がネフスキー大通りにかかった時、ある騎兵大尉の掛け声が聞こえました。
「頭ー右!歓迎、注目。」
自分の隊に先帝の遺骸を歓迎せよと号令をかけたのは、後の内務大臣となるトレポフという男でした。
リテイヌ橋付近で、警官の世話を焼いたりこまごまと民衆交通整理を行っているっ大臣が目に着きました。当時内務大臣であったイワン・ニコラエウィチ・ドゥルノヴォでした。大臣が指揮するべき相手は民衆や警官ではなく、警視総監や警察の長官であろうとウイッテ伯は感じたようです。
これ等のことを目撃してウイッテ伯は、誰もが尊敬していた皇帝の死を深く哀悼の意を表している場と感情に対して不調和であり、その行動は不敬であると思った。
トレポフとは後に政治家として政策の違いから対立していきます。この時の事が心の中に刻まれていたのかもしれません。